「生きててほしかった」と言われない彼のために|三浦 由子|note
少し前の事件ですが、ずっと気になっていました。
報道は、善悪を分けたがる傾向にあります。
エリートによる殺人事件で、被害者は実の息子。
息子によるDVで苦しんでいた。
不謹慎ですが、報道するネタとして盛りだくさんです。
小説にでもなりそうなくらい。
で、被害者がかわいそうというのは当たり前すぎるので、加害者の方に同情するように印象操作すると、物語的になります。
実際の事件は、善悪がはっきりしないことがほとんどです。
もちろん、殺人はだめです。いかなる理由でもだめです。
でも、その動機によっては、情状酌量というカタチで、司法の場でも考慮されます。
つまり、だめといっても、どのくらいだめなのかには幅がある、ということです。
この事件は、突き詰めていけば本当に救いのない話です。
私たちのような直接関係ない人間は、こういう報道で安直に善悪を判断しないように気をつけたいものです。
自分に直接関係のない事件報道を知る意義は、その報道を自分のなかにどのように落とし込むか、というところにあると思いますが、落とし込み方が安直な善悪判断だと、危険です。
記事にもありますが、発達障害とDVの関係を当然のように結びつけてとらえると、身の回りにいる発達障害の方の見方が変わっちゃいます。
世間全体がそうなっていったら、発達障害の人たちはどうなるのか。
考えてみれば、発達障害という言葉も知識も、世間に広まったのはここ最近じゃないですか?
少なくとも私は20歳くらいまでは知りませんでした。
つまりそれまでは、医学的に障害をみなされる人に対して、馬鹿にすることが当然のように行われていたということです。
世間の知のレベルが上がれば、そういう理不尽な差別は減らせます。
知は、だから身につけるべきだと思います。
ただ、誤った知はとんでもない差別を生み出すのも事実です。
報道機関は、やっぱり営利企業です。純粋に報道使命を全うしてほしいと思いますが、求めすぎるのには限界があります。
だったら、一人ひとりがちゃんと考えないといけません。
ネットに書いてた。ニュースで言ってた。本に書いていた。
大切なのは、それを鵜呑みにするのではなく、ちゃんと咀嚼するか、だと思います。