今日読み始めた本ですが、早速面白い。
まだ最初の方しか読んでいませんが、その中で、「日本は”役に立つ”から”意味がある”へのシフトができていない」ということが書いてあります。
その経緯や背景は本書にあるので割愛します。
なるほど、と思うんですよね。
私なんかは、役に立つものに意味がある、と思っていたんですよ。
実際にそういうものも、今現在だっていっぱいあります。
Appleの製品なんてその典型ですよね。
ただ、役に立つという視点では全然良くないものにも、意味があるものも結構あるし、そこに需要もある、と。
その例として、ビンテージカーの事も書いてあります。
自動車は移動手段、つまり利便性を上げてくれるものだと思いますが、その基準で考えると、2億円だしてビンテージカーを売るわけないし、買うわけないんですよね。
私は、利便性を追求するのが好きだし、それを叶えてくれるデバイス、サービスが好きです。
ネットがない時代を高校生まで過ごし、大学生の頃にネットと携帯電話が普及、社会人なってスマホが普及。
利便性という意味では、すばらしく激動の時代に生まれたなぁ、と思います。
調べ物は本屋で何冊も本を買い漁って調べるしかなかった高校生まで。
事前に待ち合わせの時間と場所を決め手なかったら会うこともできなかった大学時代まで。
少し複雑な作業や調べ物は机の上でしかできなかった会社員の頃。
そんな時代に比べて、本当に便利になりました。
そんなサービスが、生まれた頃からある世代の人たちよりも、私はそれをシンプルに比較的できるし、そこに感動すら覚えます。
そんな時代に生きてきたからこそ、便利さの追求が好きなのかもしれません。
便利さで欲求を満たしてきたという体験をしているからです。
もっとも同世代がみんなそう、というわけではありませんが。
でも、本書で言っているように、便利さって限界があります。
マズローの欲求5段階と便利さ絡めて考えると、低次に位置している生理的、安全、社会の欲求あたりまでは、少なくとも日本ではほとんどの人が満たされているかもしれません。
食糧危機に怯えている人はあんまりいないし、病気になっても難病でない限り病院に行けば治る、と思っていますよね。
自分のこととして考えたら、本当は毎日平穏にすごせていることに感謝すべきなのかもしれませんが(そういう人もいますよね、今日も一日に感謝、みたいな)、どこかでそれは当たり前になっているし、言葉は違うかもしれませんが、ある意味麻痺状態だと思います。
欲求を満たすのが利便性=役に立つものだけと考えたら、少なくとも低次の普遍的な欲求は多くの日本人が満たされている状態なので、もう空きが少ない。
そうなるとより高次な欲求を満たしたいと人は思います。
(欲求に終わりはありません)
そこを便利さで埋めようとするから、うまくいかないのでは、という論考ですね。
◆
ふと考えてみると、私の職業は「音楽」です。
音楽は利便性がほとんどありません。
しかし、音楽って昔からずーっとありますし、たとえ音楽産業は傾いても音楽そのものが消えると思っている人はいないでしょう?
それはつまり、欲求を満たすものは、なにも便利さだけではない、ということを証明していると言えます。
自分の職業でありながら、そんなことにも気づかず、役に立つことと意味があることを同じだと考えていたのは恥ずかしいですね。
さて、今日も音楽に勤しみます