「俺はお前らの素材かと悟った」「次に命が助かるのなら、震災は忘れてもらってもいい」東京キー局が続けてきた被災地報道の“罪” | ABEMA TIMES
難しい問題です。
突然の災害で平穏な日常を奪われた被災者の方々ですが、報道がないと直接の被災者ではない私たちは、事実を知ることもできません。
あの震災がいかに大きな被害をもたらしたか、ということを報道することには、確実に意味があります。
お金だって物資だって、報道であの惨状を知ったからこそ多くの支援が集まった、という側面も否めない。
その面だけ捉えれば、報道使命にはかなっています。
加えて、報道機関は民間企業なので利益追求は当たり前。
報道内容が、いかに視聴率を取れるかという方向に傾くのは仕方のない部分があります。
震災の報道を、ドキュメンタリーで感動的にもっていくことで支援が増え、視聴率も上がれば、被災地のため、そして民間企業の利益を出すという二つの目的を同時に果たせるわけです。
ただし。
被災者が嫌がることはしない、という絶対の約束があります。
被災者は嫌がっているけど、結果的には支援も増え、視聴率も上がったからOK、というのはダメ。
被災者が嫌がることとその他のことは天秤にかけることはNG、つまり被災者が嫌がらないことは「条件」です。
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あの震災で私たちが学ばなければいけないことは山ほどあります。
報道のあり方もその一つ。
報道が必要なのは言うまでもありませんが、どんな報道のあり方が被災者にためになるのか、社会のためになるのか。
当ブログでは繰り返し書いていますが、何年の何月何日に東日本大震災があった、ということよりも、それによって社会がどう変わったのが、私たちは何を学んで何を学べなかったのか。
どんな失敗をしたのか。
自然災害がなくならない限り、私たちは今後何十年も考えていくべきことなのです。