日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

議論の目的が合理性?

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ひろゆき氏、好きですよ。

情報量もすごいし、論理的。

 

佐々木氏が言うように、上の世代がふわっとさせてきた部分に対するうんざり感を、少ない言葉でズバッと斬る感じはまさに爽快です。

 

私の意見ですが、、、

ひろゆき氏は、物事を合理的にとらえる、ということそのものが哲学の一部になっていると思います。

そういうところは、私とちょっと近い感覚です。

(私の能力がひろゆき氏と近いという意味じゃないですよ)

 

ただ、これも単なる切り抜きかもしれませんが、矛盾も少し感じました。

ひろゆき氏は講演等でひとりで話すことが苦手という理由に「言いたいことがない」をあげています。

 

一方、自身の動画ではその考えに至った根拠を述べているが、論破部分だけが切り抜かれ話題になる、とも訴えています。

 

根拠と哲学や思想は似ているようですが違います。

言いたいことがないけど述べている根拠はある。

これは哲学や思想があまりないのでは?と感じるのです。

論理性、合理性自体が目的になっているのでは、と。

 

議論すること自体が目的化しないようにするために不可欠なのが、哲学や思想だと思います。

この議論に勝つか負けるかではなく、この議論によってどんな折り合いをつけ、どんな方向に向かっていくのか。

それが議論の目的です。

 

ディベート等で行われるのは、議論をするうえでのトレーニングです。

ディベートでどれだけ勝っても実際の世の中は変わりません。

 

 

私は、人間は感情の生き物だと思っています。

いわゆる論破されたほうが、自身の矛盾に気づくきっかけになり、新たな知見を得られたとなったら、それは良い議論です.

 

しかし論破という言葉がもつ印象通り、負けた方は負けたというマイナスな感情しか残りません。

そして第三者がそれをみても、爽快感が残るだけで、やっぱり世の中は変わらない。

 

日本は議会制民主主義です。

議論は国家の行末をきめる根幹です。

有意義な議論ができる人が増えた分、この国は間違いなくよくなります。