日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

勉強とスポーツにおける区別、差別

http://bunshun.jp/articles/-/7892

なかなかにとんがった主張の記事ですが、私は同意できます。

ちなみに、私は学生時代にサッカーを含めた体育関連で、安田氏のような嫌な思いをした記憶はありません。 しかし、振り返って考えてみれば、違和感はあります。

例えば勉強の成績を表すテストの点数。採点後に先生が答案用紙を生徒に返す際、点数をみんなに発表しながら返す、といった行為がなされたら、多分問題視されると思います。 なぜそれが問題視されるか。言うまでもなく、能力差による差別が起きにくくするためでしょう。 勉強の能力はみんな違います。それによって人格が決まるわけではありませんが、一方テストの点数という明確な上下がつくランキングが示されると、それによる優越感、劣等感を感じるのが自然で、それが人格判断にまで派生してしまう恐れがあります。上から目線人間や、過度なコンプレックスを持つ人間が形成される可能性が高くなる、ということです。 授業中の発言や普段の言動などで、ある程度は勉強の能力も皆に知れているでしょうが、それは防ぎようがありません。それでもテストの点数発表はしないのは、そこをコントロールできるからです。

一方スポーツ(体育)はどうでしょうか。 スポーツは、その能力差が勉強に比べてずっと見えやすい。陸上競技だって、集団競技だって、誰の目にも得手不得手がわかりやすい。 体育の授業におけるテストで、勉強のテストのように点数を隠すことは現実的にできませんが、それに対する懸念を感じている様子も見たことがありません。 さらに、テストでなくても授業自体が毎回明確に運動能力を露呈しているのと同じです。上記した、ある程度把握できる勉強とはかなり差があります。 さらにさらに、運動会や体育祭といった、運動能力を露呈するのが第一目的であるような行事を学校側がこぞって開催します。 勉強に置き換えてみてください。テストの点数をクラスメイト、学校教師、保護者や家族に対して、点数が良かろうが悪かろうが発表することを強制しているのとほとんど同じことです。ありえなくないですか?

大人になれば、ある分野の能力と人格は無関係ということは理解できても、小学生くらいの頃にそう考えるのは正直難しい。 とくに多感なその時期、普段からコンプレックスを感じていることをみんなの前にさらされたときの思いは、一生消えない心の傷になることもあるでしょう。それは全くもって不健全だし、屈折した精神を生んでしまうきっかけに十分になりえます。 安田氏も、集団球技が不得意だった事によるいじめがあったという記憶が、今のワールドカップ嫌いに影響していることを記事中で説明しています。(安田氏の精神が屈折していると言っているわけではありません)

ここからは憶測です。

安田氏だって、本当はみんなと同じようにワールドカップ観戦を楽しんだり、日本代表を応援したりできたら良かった、と思っているのではないでしょうか。 いや、そこまででなくとも、反射的に忌避感を覚えるという心情を前向きには捉えてないように思います。 だからこそ、タイトルに「チンケ」というワードを選んでいるのだと思います。

たとえ運動音痴であっても、ワールドカップにおける日本代表を応援することはできます。 しかし、それができない思考になっているのは単なる好き嫌いではなく、やはり学生時代の嫌な思い出があるからです。 学生時代の理不尽な思い出は、その後の人生にじわりと、しかし確実に影響し、それらのほとんどはアンコントローラブルです。

親、教師、その他教育に関わっている方は、そのあたりを本当によく考えていただきたい。 競争意識を助長することが全て悪だとは思いませんが、運動音痴(=先天的な能力で本人にはどうしようもないもの)というコンプレックスをもっている人も、そうでない人と同じように扱ってみんなの前で音痴さを晒させ、それがその後どういった影響を本人に及ぼすのか、ということはちょっと考えたらかなり危険性をはらんでいることくらいわかるはずです。 勉強においてはそういう懸念があるからこそ、テストの点数をみんなに公表するといったことがなされていないわけです。 競争によって何でもよくなるのならば、勉強のテスト成績がかなり悪い人の分まで公表し、競争意識を刺激させればよいわけですが、そうはなっていません。

最後に。

この記事に対して「安田氏は差別的な見方しかできないかわいそうな人なんですね」といった趣旨のコメントがありました。 私はこの記事を読んでも安田氏が差別的だとは思いませんが、もしこれを差別だと言うのならば、幼少期に不幸にも性的被害にあった女性が、その後ずっと男性恐怖症になったというのも差別になりますが、そうなんでしょうか。 問題の本質は、性的被害にあわない環境や社会をどうやって実現していくのか、ということであるのと同じように、安田氏が学生時代に経験したようなことが繰り返されないためには、教育や社会をどう変革していくか、ということだと強く思います。