先日の豪雨、ものすごい被害が出ています。 死者数は3桁になっていますが、死者数だけで災害の酷さを見るのは間違っています。 100人の死者が出た一つの災害ではなく、1名の死者が出た事故が100件以上同時に起こった、と見るべきでしょう。
私の仕事仲間も被害にあい、今回なんと家が流されました。 スマホから何度も鳴り響くアラートで、これは本当にまずいかもしれないから避難しよう、と家族で話し、準備に取り掛かった矢先家中の窓ガラスが轟音とともに割れたそうです。 曰く、生まれて始めて命の危機を感じた、といいます。 不幸中の幸いで、家族全員怪我などはありません。
こういった自然災害が起きると、自然破壊反対、環境保全などの訴えが多くなります。 それは決して悪いことではありませんが、どれだけ人が自然を守っても、人が住んでいる以上天災は絶対に起きます。 そもそも「災害」とは人の感覚で「害」なのであって、自然にとっては単なる気候現象でしかありません。
私はむしろ、天災をテクノロジーで乗り越えるにはどうすべきか、を皆で考える方が生産的だと考えます。 支援や復興には多くのテクノロジーが活用されており、テクノロジーが人命を救うことは誰の目にも明らかです。 便利さの過度な追求がもたらす副作用もありますが、かといってそれを止めることができないのは、テクノロジーが人命を救うことに大きな期待が持てるからでしょう。
被害にあった私の仲間は、音楽家です。音楽には楽器やコンピュータなど最低限の機材がどうしても必要ですが、今回それらもすべて失いました。歌をうたうことはできますが、ボーカリストではありません。
つまり、私の仲間は音楽的な「物の環境」を失ったのです。
そんな彼から電話をもらい「早く音楽がしたい」という願いを聞きました。 そして、そう思うのは自分の周りに音楽をやっている人がたくさんいるからだ、と言っていました。 音楽的な物の環境は失いましたが、人の環境は失っていません。
ちょっと強引な飛躍をしますが、音楽を志すにあたって、まず楽器や機材をしこたま買い込む人がいます。 繰り返しますが、楽器や機材は確かに必要だし、一般的にはそれらは高価であればあるほど良いものを生み出す傾向にあります。 しかし、それらはお金で解決できるものであって、そうしたら富豪はみんな良い音楽を作ることができる、ということになりますが、実際はそう簡単にはいきません。
そこに必要なのが人の環境です。 一緒に音楽をする仲間、切磋琢磨しあうライバル、業界に精通する経験者などが周りにいることは、物の環境と同じ、いやそれを凌ぐほどの重要性を持っています。
被災して、心に大きなキズを負った私の仲間でも、音楽をはやく再開したい、と言えるのは、間違いなく彼の周りの「人の環境」が良かったからでしょう。
結局音楽は人が奏でて、人が聞いて、人が感動するものです。 人と繋がれないと成立しないのは自明です。