やっと理解できた!漫画でわかるフィギュアスケートの異常採点 「キムヨナは失敗しようがしまいが必ず高得点が出る」その理由
先日この記事に出会ったときに、前々から感じていたことを思い出した。
オリンピックの競技に相応しくない競技が結構あるのではないか?ということだ。
それは、「芸術性」を競う類のものだ(フィギュアスケート、シンクロなど)。
なぜ僕が、これらをオリンピックに相応しくないと思うのか。
それは、オリンピックがスポーツの祭典であり、つまりスポーツとは何だ?ということを考えてしまうからだ。
誤解なきよう記すと、フィギュアの選手、シンクロの選手も、やっていることの難度や、それまでの努力という側面で、他の競技に劣るといったことは少しも感じない。どちらも、人間の限界に近いことをやっているし、そこに到達するためには、まさしく血の滲むような努力をしたであろう。
さらにもうひとつ、上記リンクはキム・ヨナ選手に関してだが、個人的にキム・ヨナ選手、韓国が嫌い、といったことは一切ない。
(政治的に嫌いな側面はもちろん・・・)
僕が言いたいのは、なぜそれらが「オリンピックの競技」であるのか、だ。
他の競技を見てみよう。
100m走や、水泳など、タイムを競うものでは、争うタイムがコンマ数秒だ。まさに限界への挑戦をしたものだけが競う、極みの世界だろう。
走り高跳びや棒高跳びなども似ている。そこで競うのは数センチから、ときには数ミリだ。
それに比べ、芸術性を競うものはどうだろう。
芸術は人によってうつり方に差がある。
好きな異性のタイプがひとぞれぞれ違うのと同じだ。
(芸術は、だからこそ面白いし難しい)
これが、他の競技と同じように、普遍的にランキングできるのだろうか。
だから審査員が複数いる?
そんな、ある意味多数決で決める程度の大会ではなかろう。
100m走は、高性能なカメラさえあれば、100%の確率で勝ち負けが判断できる。
他の競技だってほとんどそうだ。
そう、だからスポーツは美しいのだ。
理屈や背景、歴史は全て後付で、要するにその場で誰もがわかる結果を出したものが勝ち、この潔さこそがスポーツであり、その最大の大会がオリンピックであろう。
僕の仕事は音楽だ。
音楽には、売上げランキングがある。しかし、音楽が好きな人にとって、それは音楽をはかるうえでの一つの指標でしかなく、ランキング=ミュージシャンの質、ということが成り立たないことは、一般人でも想像に難くない筈だ。
(クラシックはオリコン100位にも入らないが、素晴らしい音楽でしょう?)
そして、音楽という芸術のために、様々な場所も用意されている。
小さな地方のライブハウスから、武道館、ドーム、野外イベントまで多種多様だ。
そこでミュージシャンは自分の芸術を露出する。
そこに、個人的なランキングはあっても、普遍的なランキングは付けられない。
オリンピック競技の中で、芸術性を競うものは、そういったイベント、環境に移行していくべきだと考える。
「いやいや、やっぱり五輪でしょ」
というのは、これまでの習慣上そう思うだけで、変えていくことができるはずだ。
そのイベントは、いま音楽世界で超有名になっている世界のイベントと同じように、出演するだけで、相当のステータスになる、といったものにまで昇華していくだろう。