今回も、内容がどうでも良いことなので、若干短めで。
自分が直接みた番組ではなく、知り合いが見たのだが、「なんだそれは??」というものがあったので、投稿しておく。
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このリンク先にある「お待たせしました。桜の開花です」というところをテレビで見たらしい。
開花宣言については、ここに説明してある。
しかし、これはなかなかに不思議な光景ではないか。
目の前の光景に素直に喜べないのか?
記事にもあるように、気象庁の桜担当職員の「お待たせしました。桜の開花です」という言葉で、その周囲にいる人から歓声があがり、おめでとう、となったらしい。
例えば、これがニュースのスタジオで、◯◯公園で桜が開花したそうです、的なことを伝え、その視聴者がテレビの前で「おめでとう」なら分かる。
なぜなら、桜が視聴者の前にないので、このニュースによってその事実を知ることになるからだ。
では、この番組の場合はどうだろう。
この場合、中継されているその現場には既に人がたくさんいて、開花宣言を受けて喜んでいるのもその人達だ。
つまり、この担当職員に言われる前に、咲いていることなんて見たらわかるはずだ。
開花のきちんとした定義に照らし合わせると、開花かどうかの判断はつかないかも知れないが、花が咲いているかどうか、という単純なことなら誰でもわかる。
桜の開花に対して「おめでとう」という気持ちはわかる。
そして、開花というものには、気象庁が設定したちゃんとした定義があるのもわかる。
しかし、開花宣言を現場で聞いて喜ぶのは意味がわからない。
自分の目で見て、咲いていたら喜べば良いのではないか。
それとも、気象庁の担当職員が開花というまでは、自分の目でいくら開花を確認しても、喜べないのか。
開花を喜ぶのは、そんな概念なのだろうか。
開花は「自分で」喜べば良い
気象庁の誰かがあるとき作った開花の定義を満たさないと、いくら目の前で開花を自分の目で確認していても喜べない、というのはあまりにも滑稽ではないか。
花をみて美しいと思ったり、開花を喜んだりという、むかしむかしから人が楽しんできた感覚くらい、自分で素直に喜べば良いと思う。
もちろん、開花宣言を受けても、自分にとってはまだもう少し、と思って喜ぶのを待つ、というのもアリだろう。