昨夜は、ある知り合い数人で「マジックバー」に言った。
その名の通り、バーテンダーが全員マジシャンで、約1時間の間に、数名のマジシャンが自分たちグループの座るカウンターの前にやってきて、一通りのマジックを披露してくれる。
その店も老舗で、各々のマジシャンのマジック歴も結構長いこともあり、どのマジシャンも素晴らしいマジックを披露してくれた。
改めてマジックを間近で見ると、そのマジックだけでなく、話術、立ち振舞、何かをする仕草など、細かいところが洗練されている印象を受けた。
その店自体が歓楽街の中にあるし、そもそもバーなので、泥酔とまではいわなくても、結構な酩酊状態で来店する人も多いのだろうが、マジックをすすめていくうえでうまく酔ったお客さんをコントロールするスキルもしっかりあるようだ。
(実際、自分たちの数席となりのお客さんはかなりよっていたが、どのマジシャンも余裕で対応していた)
選択肢が多すぎるから迷う、職業
前置きが長くなったが、職業選択について。
この国の殆どの人は、社会に出てなんらかの方法でお金を稼いで生きていく。
自給自足のひとは少ない。
日本のような先進国で1億人以上が暮らしているということもあり、いまやあげたらきりがないほど、職業が存在する。
昔はどうだったか分からないが、少なくとも現代は、ある程度職業選択の幅は広い。
逆に、選択肢が膨大すぎて、結果どの職業を目指して良いのかわからない、という声も聞く。
職業に対する向き、不向き
職業を選択する上で、最も重要視される基準に、「自分にその職業が向いているか」がある。
しかし、人がその職業に向いているかどうか、というのは、果たして判断可能なのだろうか。
可能だとしたら、それは自分自身で可能なのか、はまたま他人から判断してもらうものなのか。
自分は、自分自身でのみ判断可能だと思う。
しかも、それを何で判断するかは至ってシンプルで、それを知った時に、どれだけ衝撃を受け、感動したかを認識するだけで良い。
冒頭に書いたマジシャンの話。
各マジシャンに、マジシャンになった経緯を簡単に尋ねたが、全員テレビやショーでマジックをみて、というのが始めたきっかけだという。
当然といえば当然だが、同じマジックをみて感動する量は各々で違うだろう。
今プロとしてマジックをしている人たちが、マジックをはじめたきっかけになったテレビのマジックショーは、他にもたくさんの人が視ていたはずだ。
しかし、そのなかの何人かは自分で実際にマジックをやってみたいと思い、手先の鍛錬やトリックの研究をし、今にいたっている。
つまり、同じものをみても、そこまでやりたいと思う人と、そこまでではない人がいるのだ。
従って、そのマジックをみて感動して、自分もやってみたいと思えたら、その時点でその人はマジックに向いている。少なくとも、そう思わない人と比較したら、明らかに向いている。
才能の、向き・不向き
自分の場合は音楽だが、音楽やマジックなどの職種でよく出てくるキーワードは、才能だ。
この「才能」と「向いている」というのをリンクして考えがちで、才能がない人は向いていないとなってしまうことも多い。
人にはあらゆる分野で能力に差があるので、勿論マジックにも音楽にも、才能という名の能力差自体は存在する。
しかし、マジックも音楽も、それを続けるのに絶対に必要な最低限の才能は、それらが好きかどうか、それらに感動できたかどうか、だ。
学校の先生や親に言われなくても、音楽を聞いて感動することやマジックをみて感動することが自然にできたら、才能の第一段階はクリアしている。
実際にそれらを行うスキルに対する才能にも、確実に個人差は存在する。
しかし、ここは言い出したらキリがない。
そもそも、才能は「ある」「ない」ではなく、どのくらいあるか、という性質のものだ。
それに、明らかに才能がないと思われる人で、その方面でしっかりやっていっている人もたくさんいる。
逆に、才能はしっかりあるのに、なかなかうまくいかない人も大勢いるだろう。
結果から才能のあるなしを判断するのは変だ。
努力して結果を手に入れた人はみんな才能があることになり、これだと、うまれつき持っている能力という意味での才能、という言葉と矛盾する。
だとすれば、職業を選択する時点で自分の才能のあるなしを考えたり、向いているかどうかを悩んだりすることには、あまり意味が無いように思う。
結局、幸せに生きていくうえで重要な要素となる職業は、向いているかどうかではなく、好きかどうかで「しか」判断できない。
スキル面での才能があっても向いていないことや、スキル面での才能がなくても向いていることがあるのだ。
改めて、「好き」というだけで才能がある。