インターネット上でのコミュニケーションも充分に普及し、SNS上で地域や世代、性別を超えて議論されることに、自分自身も慣れてきた。
もっとも、自分自身はあえて、なにかの記事について積極的にコメントを書くことはない。いわゆる傍観者だ。
その議論の行方を見守って、どちらの主張にもうなずけるものがあり、それだけでも良い勉強になる。
特に勉強になるのは、自分の意見と違う主張を理路整然と訴えられた時。
傍観しているだけなので、極めて冷静に見られるし、その結果自分の知識不足や甘さに情けなくなることもある。
もちろん、そういったこともあるので、今後もこういったやりとりを傍観する習慣は続けるだろう。
しかし、やはり眺めていて、やれやれ、と思わざるを得ないものも少なからずあるのが事実だ。
その代表が、存在否定系の書き込み。
少し前に待機児童問題にまつわる、「保育園落ちた、日本死ね」ブログが話題になった。
待機児童問題は、確実に日本の抱えている大きな問題の一つだ。
そして、このブログ著者の気持ちも非常に理解できる。
しかし、ここに使われている「死ね」という言葉がでた時に、自分としてはげんなりしてしまう。
当然、この著者は本当に日本に死んでほしいわけではなく(第一、日本が死ぬという概念もよくわからないが)、その悔しさや怒り、理不尽さを、ブログを通じて訴えただけで、そのなかで「死ね」という言葉をつかったに過ぎないのだろう。
しかし、このブログに限らず、とにかく相手の存在を真っ向から否定するような応酬の書き込みを見ると、途中まで建設的なやりとりで面白かったのに、と非常に残念に思ってしまう。
日本は議会制民主主義だ。
議会を通じて法律や予算を決め、国の進む道を方向づける。
言うまでもなく、議会と言うのは、議論をする場だ。
議論をするということはつまり、そこでは主義主張の違う人や団体同士が、意見を出し合うことにほかならない。
しかし、それは自分と意見が違う人、団体を「なくす」為にしているのではないだろう。
政治であれば、与党がいて野党がいる。どちらも存在自体は必要不可欠だ。
これは個人でも同じことが言える。
例えば原発問題のように、すぐに答えが出ないような難しい問題についての議論にネット上でなった時に、そのやりとりは、いずれ「こいつは馬鹿か」や「日本から出て行け」といった言葉が出てくるようになる。
議論しあう同士には、知識の差もあるだろうし、根本的な考えが違う者同士ということも多々ある。
そうなった場合、最後まで自分の意見を曲げずに主張を続けることは別に悪くはないと思う。
反面、「こういうやつがいるから日本はだめになるんだ」と言い始めると、その人が思うダメな人をどんどん排除していけば、日本が良くなるということになるが、果たしてそうなのだろうか。
人口が数百人ならいざしらず、日本だけでも1億人以上の人が住んでいるなかで、全てのひとに適用される「絶対正しい」ことなんておそらく無い。
だとすれば、どんな主義主張ですら、それに反対の意見を持っている人がいることなんて、少し考えれば分かる。
そういう人とは、単純に距離を置けば良い。または関わらなければ良い。
FacebookやTwitterならば、分かり合えない同士はブロックすれば良いだけの話だ。
肝心なのは、個人がブロックすること、つまり距離を置くことや関係を持たないようにすることは、その人自体の存在を否定していることではないということ。
自分と反対の意見を持っているひと同士集まって仲良くすればよいだけの話だ。
主義主張に関して、各々が議論することはとても良いことだと思う。
議論を経ないと、良い道は生まれない、とも思う。
しかし、自分の主義主張にそぐわなければ存在否定、というのは、自分の主義主張を他に対して強要していることにほかならない。
そういった人が、何かのきっかけで権力を持てば、その先にはファシズムが見えてくる。
ファシズムの行く末は、これもまた歴史がいやというほど証明してくれるではないか。