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熊本の地震報道に関して、報道のあり方が改めて問われているようだ。
記事にもあるように、マスコミの行き過ぎた行動が物議を醸している。
しかし、自分としては、その反動で報道自体の重要性が下がることを懸念している。
情報を伝えることが報道の使命
今も現地では余震が続いている模様。
そんな中で被災者の方々は大変な生活を強いられている。
それに対して支援をするのは、国として当然のことだ。
では、被災者以外の人々は、最初にどうすれば良いのか。
それは募金をすることでもない。
ボランティアに行くことでもない。
現状況をできるだけきちんと「知る」ことだ。
今ではテレビ、ラジオ、インターネットが全国に普及し、情報が入ってくることに感謝する人はあまりいないと思う。
報道がなかったら、状況を把握しようがない
報道陣は帰れ、マスゴミといった言葉を、今回もよく見かけるが、報道自体は極めて重要の機能だ。
何度も言うが、報道があるから、被災地以外の人もその被害状況を画面や紙面を通じて知ることが出来る。
その結果、支援をしなければ、と思うに至ったという経緯は否定出来ないだろう。
もちろん、マスコミの特権階級意識による軽率な行動は批判対象になるべきだ。
しかし、それが報道自体を否定することになってしまってはいけない。
自衛隊はいわゆる救出のプロ集団だ。
同様に、報道陣は報道のプロ集団だ。
現地にいる人は、現地にいるからこそ、自分に与えられたプロ的な役目を果たすべきだ。
一部の報道関係者が報道のプロ的な役目を履き違えていることは事実だが、報道自体はされるべきだ。
戦場カメラマンは、目の前の人を助けることよりも、シャッターを押すことを選ぶかもしれない
戦場カメラマンという職業の人がいる。
この職業の人々は、銃撃戦で人が殺しあっている所ですら、その状況をフィルムに収めようと命を賭けている。
自分も死ぬかもしれない状況なのに、なぜそこまでしてシャッターを押し続けることにこだわるのか。
それは、その悲惨さを多くの人に伝えることが自分の使命、と割り切っているからだ。
戦場カメラマンが、戦地にいるボランティア活動家といっしょにその活動に参加してしまうと、戦争の悲惨さは、戦争を直接体験していない自分たちにはなかなかに伝わりにくい。
映像も、写真もなく、語り部の話「だけ」で戦争の悲惨さは伝わるのだろうか。
広島や長崎の原爆資料館にあるたくさんの写真を、目を背けずに見ることによって、戦争は絶対に起こしてはいけない、という気持ちが強くはならないだろうか。
被害を、現地以外に、後世に伝えるために
現地の被災者を直接助けること「だけ」に全ての人が参加すると、その状況は、その時、その場所しかおこっていないことになる。
被災地以外の人にも支援の輪を広げることや、後世にこの状況を残すためには、報道は必要不可欠だ。
報道関係者も、その大きな使命を背負っていることを改めて認識してもらい、現地でプロの報道に徹して欲しいと願う。