日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

知覚像と網膜像(だと思う)

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知覚像、網膜像に興味がある。
 
興味があるとは言っても、その専門家でもないので、自分の興味があることが、本当に知覚像、網膜像というものなのかが定かではない。
 
自分の興味があることとは、以下の様なことだ。
 

月の大きさはどのくらいで見えていますか?

 
例えば月。
月を今「見ることなく」、月はどのくらいの大きさで見えますか、という質問に対して、どのくらいと答えるだろうか。
それを例えば手で表すと、大抵の人は直径20センチ前後の輪を作って、大きさを示す。
今までの回答では、腕で輪を作った人もいた。この場合は、直径60センチくらいになるだろうか。
 
実際に月を見上げるとどうだろうか。
見えている月の直径は、せいぜい3センチくらいだ。
 
この差はどこからやってくるのか。
これは、脳がイメージしている大きさと実際の大きさが一致しないことを示している。
多分これが知覚像と網膜像というものだ(多分)。
 
上の月の例をもう少し突っ込んで分析する。
普段から月は見るのに苦労しない。
にもかかわらず、知覚像と網膜像に差が生まれるということはどういうことか。
これはつまり、実際に見ている時に、指をかざして大きさを測ったりしない限り、実際の大きさではなく、頭のなかのイメージ(知覚)の大きさで認識していると考えられる。
先入観とも近いかもしれない。
月はこのくらいの大きさだ、と思って見ることにより、実際の大きさを認識できないのだ。
 

風景写真が、以外にショボイ

 
こういったことが風景写真にもよくある。
絶景と呼ばれる景色の中で、その素晴らしさが「大きさ」によるものも少なくない。
大きな建物や、大自然の風景など。
スマホを持ち歩いている人ならば、この絶景を写真におさめて、SNSでシェア、ということを試みる人も多いが、写真におさめて改めて見ると、以外にその壮大さが伝わらないことが多々ある。
これも月の例と同じで、その場で見ている人は、実際の大きさよりも、もっともっと大きく見えているのだ。
しかし、写真におさめたときに、それはもちろん実際の大きさで写るので、そのギャップに不思議な差を感じるというわけだ。
(プロの写真家は、このギャップをなくし、大きさが見る人に伝わるテクニックを身につけている)
 
こうみると、知覚像や網膜像というのは、どちらかと言うと「悪い(?)」方向にいきがちだが、これを逆手にとっている分野もある。
その一つに芸術分野がある。
 

制作活動、盲目者

 
例えば音楽。
ある有名ミュージシャンは、裸眼での視力が0.1を下回る。
日常生活にも支障をきたすので、普段はコンタクトやメガネが欠かせない。
しかし、このミュージシャンは、制作活動(特に作詞)をする時は、極力メガネもコンタクトもしないそうだ。
理由は、見えていないほうがイメージが膨らむから。
つまり、音楽、歌詞で表現したい世界観は、実際の世界観ではなくイメージ(知覚)の世界。
この時に、実際に見えているものは、リアルなだけに邪魔になる、とのこと。
 
似た例で、ミュージシャンに占める盲目者の割合は、一般の盲目者の割合よりも多い。
スティービー・ワンダーもレイチャールズも、ドック・ワトソンもラウル・ミドンも盲目だ。
それは、見えていないことが、音楽分野でプラスに働いているかもしれない、と想像してしまう。
(※盲目の方が良いといっているわけでは決してない)
 

実際のものを見ずに描くアニメーター

 
また、あるアニメ作家は、絵を描く時に、実際のものを見て描くことをしないそうだ。
ではどうするかというと、アタマの中のイメージだけで描くのだ。
すると、実際の大きさではなく、知覚像の方に寄った大きさの絵になってしまうが、その方が受け手には伝わるという。
 
芸術は、人の感動に作用するもの。
その世界観は、広ければ広いほどよいだろう。
だとすれば、網膜像よりも知覚像に頼った方が良いのかもしれない。
 
リアルよりもリアルを追求できるかもしれない。
実際に見えている範囲は、いくら高い山に登ってもしれているが、頭のなかで想像できる世界は、時間も距離も超越して、大昔の宇宙にさえ届くこともある。
実際に見えていなくても、歴史があり、空の先に宇宙が存在することは「リアル」なので、こちらのほうが本来リアルと呼べるのかもしれない。