日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

公共交通機関のマナーについておもうこと

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電車やバスなどの公共交通機関は、「公共」と名がつくので、必要なマナーが存在する。
混みあっているのに、椅子の上に荷物を置いておく、といった行為は、やはりマナーに反していると思う。
 
しかし、大学時代くらいから、そのマナー必要?と思うものがある。
それが、乗り物内での電話だ。
 

乗り物内の話し声は、そんなに不快なのか

 
自分が大学に入る頃辺りに、爆発的に携帯電話が普及した。
今のインターネットもそうだが、インフラが先に整うと、それに対する規制やマナーが後手にまわってしまう。
 
携帯電話はどうだったかというと、その普及以前から乗り物内で「話すこと」自体がマナー違反的な風潮があったので、それをそのまま引き継いだ印象だ。
 
現在も、基本的には携帯で話すことはマナー違反とされている。
 
しかし、そもそもなぜ乗り物内で携帯を使って話すことがマナー違反なのだろうか。
上記したように、もっと遡って、乗り物内で話すことはなぜマナー違反なのだろうか。
 
自分は結構海外に行っているが、日本の公共交通機関内の静けさは、おそらく世界トップクラスだ。良くも悪くも。
それは一重に、公共交通機関内で話すことは、携帯も含めてマナー違反という風潮を作り上げていることに成功しているからだろう。
 
しかし、そもそもマナーは人に迷惑をかけないためにあるものだろう。
そこに照らしあわせて、公共交通機関内で話すことは、人の迷惑になっているのか。
 
これはもちろん人による。
しかし、少なくとも自分は全く不快には思わない。
そして、不快に思う人の中には、「そういったマナーがあることを知っている」から、それに違反しているのが不快、という論理が逆転している人も結構いるのではないだろうか。
 
もちろん、大きな声で騒いだり、携帯で話したりするのは、マナー違反になる。
人は、ある音量以上を不快と感じるというデータはしっかり出ているので、周りに気を遣って話すことは大切だと思う。
しかし、その結果話すこと自体をマナー違反にするというのは、風潮が大雑把過ぎることはないだろうか。
 

公共の場所では、公正に

 
中には、寝ている人や本を読んでいる人もいるから、という人がいる。
冗談で言っているのならば面白さにかけるし、冗談ではないのなら、論理的思考がかなり欠落している。
公共交通機関は、寝るところでも本を読むところでもない。
それらは許されている行為だが、それを優先させる場所ではない。
 
「公共」という言葉が示す通り、乗り物内には様々な状況の人がいる。
仕事で移動中の人もいれば、何かの帰りで疲れ、眠っている人もいるだろうし、推理小説の最後あたりで、移動中でも読書に時間を割きたい人もいる。
これらの人が一緒になる可能性があるのが「公共」だ。
だとすれば、それら許されている行為も「公正」でないといけない。
寝ている人にも気を遣わないといけないが、同時に緊急の電話を受けているサラリーマンのことも考えないといけない。
 
全体のバランスをとるうえで、話すこと自体がマナー違反というのは、偏りが酷いのではないだろうか。
 
つまり、「車内での話はマナー違反」から「車内での話声は適切な大きさで」に変えれば良いのではないだろうか。