はじめに書いておく。
死刑制度がどうあるべきなのかを自分の意見として持てているか。
持てていない。
だから、今回は悩み投稿のような体裁になるが、ご容赦いただきたい。
国別の死刑制度と、日本の世論
法律上、事実上の死刑廃止国は約140カ国で、世界の3分の2が廃止という状況。
そんな中、日本での世論調査の結果が、「死刑もやむを得ない」80・3%、「死刑は廃止すべきである」9・7%。その差は歴然だ。
しかも、死刑推進派は、年々増えている。
死刑制度推進派の理由の半分以上(53.4%)を占めるのが、被害者や家族の気持ちがおさまらないというもの。
しかし、この主張には疑問点が2つある。
被害者の苦悩を取り払うための死刑は正当といえるのか
疑問点の1つ目は、加害者を死刑にしたら被害者や家族の気持ちがおさまるのか、ということ。
もう少し掘り深めれば、それを正当とする考えは正しいのか、ということ。
今も続く中東紛争や、ISISの問題を考えてみる。
それでもテロは正当化できない?
その通りだ。
では死刑制度はどうだろうか。
自分の身近な人を殺害されたら、加害者を死刑にするのは正当なのに、歴史上、国家間で行われた行為に対する復讐テロは正当ではない。
個人と国家の違い、テロと裁判による死刑を一緒にするのは乱暴過ぎる議論かもしれない。
かといって上記矛盾を完全に解消することは到底できない。
シンプルに言えば、テロリストの行為は、自分たちの民族に対する罪に対する罰で、復讐心をおさめる為にやっているということになれば、死刑制度と同じく正当なことになってしまう、ということだ。
あなたは当事者なのか、すべての当事者は同じなのか
疑問点の2つ目は、これを答えている人の中に、どのくらい「当事者」がいるか、だ。
実は自分自身も、以前は死刑推進派で、理由も「被害者や家族の気持ちがおさまらない」から、というものだった。
その考えに疑問を抱き始めたのは、このブログで数回紹介している、佐々木俊尚氏の「当事者の時代」を読んでから。
この本の中に「マイノリティー憑依」という言葉が出てくる。
今回に当てはめると、自分自身は被害者家族でもないのに、被害者やその家族の気持ちを考えてあげている、という状態。
まさしくそのとおりだった。
想像を絶する、という表現があるが、自分の身近な大切な人を、何の理由もなく殺害された人の気持ちは、まさにその言葉が合う。
つまり、想像できるはずがない。
だから、安易に「被害者や家族の気持ち」という言葉を使うのは間違っている。安易でなくても間違っている。
さらに、たとえ当事者であっても、すべての当事者を一括りにはできない。
つまり、当事者でもない自分たちが、すべての当事者の気持ちを一括りにして、一般化し、それをもとに制度を決めることは、中身が空っぽ過ぎるし、大雑把すぎる、ということだ。
主張は、反対意見に耳を傾けたあとに定める
冒頭に書いたように、これを踏まえて死刑反対と訴えたいのではない。
死刑推進派の推進理由はこの他にもあり、それらの中には「確かに」と思うものもある。
一方、先進国も含め世界では死刑を事実上廃止している国が多いことも事実で、そこにはそれなりに正当な理由が必ずある。
だから正直わからない。
ただ、現時点で日本の80%以上の人が死刑推進と言っている状況を見た時に、それに対する反論も冷静に考えたうえで、自分の主張を定める必要がある、と考える。