仕事術関係のサイトや書籍でよくみかけそうなタイトルだ。
内容は問題ないが、タイトルの付け方が、はたしてどうだろう。
出世を目指すのは当たり前?
一生出世しない、という言葉を使っているが、裏を返せば出世するためにはこういうことに気をつければ良い、ということになる。
それは、出世することがまずありきで、そのための方法論なのだが、一昔前に比べると、出世を目指すのが当たり前という風潮は消えつつあるのが現状ではないだろうか。
出世することに意味がないと言っているわけではない。
出世そのもののこと、働き方そのものを考えた後に得る知識ではないだろうか。
この記事を例に取れば、例えば店選びやメニュー選びにも、接待の目的を踏まえつつ命がけで行うべき、といった内容が述べられている。
しかし、そもそもこういった接客をして出世を目指す、といったことに疑問を抱く人もいる。もちろん抱かない人もいる。
後者は構わないが、前者はこういった記事から学ぶことは少ない。
会社と自分の関係
要するに、根本的な概念が違うのだ。
会社の為に自分がいるのか。
自分が会社を利用しているのか。
会社勤めは、3日・3月・3年の節目で辞めたいと思う時期が到来するらしい。
逆に言えば、3年目を超えると終身雇用までいくということかもしれない。
しかし、今はそんな時代でもない。
どんな働き方をしてもストレスはあるだろうが、これまでのサラリーマンとしての働き方は、安定と引き換えにストレスを甘んじて受け入れていた、という人も多いだろう。
リーマンショック以降、大企業神話が崩れつつある現代では、その安定が揺らいでいる。
そうなると、ストレスを甘んじて受け入れる名分がなくなる。
そして、どうせ安定せず、しかもストレスを感じるのならば、自分のやりたいようにやってみよう、という変化が起きる。
この結果生まれた働き方が、自分のために会社を利用する、といった働き方だ。
誤解のないように繰り返すが、会社の為に自分がいる、という生き方を否定しているわけではない。
それが、生き方・働き方を自分なりに考えた結果ならば、何の問題もない。
ただ、その選択肢が明らかに以前より増えたということ。
多様性を認める社会ならば、その選択肢は多ければ多いほど良い。
よって、現代は良い時代だ。
達観した意見も、一つの選択肢に過ぎない
世の中って、そんなもの。
働くって、そういうこと。
こういった達観した意見をたまに聞くが、世の中の捉え方、働くという概念さえも今は多様性がある。
そう考えると、この達観した意見はまったくもって意味をなさない。
たくさんある選択肢のなかの一つを取り上げて、それが一般的だ、と叫んでいるだけだ。