うさぎがライオンに睨まれている。うさぎがライオンに助けを乞うと、ライオンは「俺が考えていることを当てたら見逃してやる」と言った。するとうさぎは答えた。「あなたは、私を襲って殺そうと思っている」ライオンはうなだれた。
昨日、議論投稿をしたが、実はああいった投稿をするに至る前に、自分が勝手に「師」と仰ぐ人と、かなり久しぶりに会っていた。
言葉遊びのようになるが、師の価値観上に、師弟関係というものは存在せず、その価値観において「師」と仰いでいる。
「師」なんていないという「師」。
矛盾という本質
上に、言葉遊びと書いたが、こういった言葉遊びの中には結構本質かつ難しい問題が包含されている。
強要はよくない。
しかし、これを理解してもらうためには、強要すべきでないということを強要しないといけない、ということになる。
世の中の常識は疑ってかかれ、という言葉に疑ってかかることも同様。
結局、言葉の上に思想が乗っかっている以上、言葉の矛盾は思想の矛盾につながってしまい、だからこそ完璧思想というものもないことになる。
完璧なものなどない、という思想は完璧なのか、、、
正解を探しすぎる弊害
つまり、そもそも何かに解決を見出そうとすること自体が不毛だということになる。
解決するという概念に時間を加味して、その都度解決に近い選択をするしかない。
これを楽しめない場合は、悩みというネガティブな状態に陥る。
すると、さらに正解を模索してしまう。
悩みすぎて、苦しくなってしまうと、理性を失った方向に流れることがある。
この結果、傍から見るとどう考えても怪しそうな新興宗教に入信する人などが出てくる。
オウム真理教関連の事件も、この流れで起こった。
そして、悩みがない人は殆どいない。
悩み続けることが苦しいのは仕方のないことなので、正解を模索し、正解と思われるものにたどり着いたところまでは良い。
しかし、所詮正解に近い選択、しかもその時点において、ということを踏まえないと、不完全な部分は消えないどころか、徐々に大きくなっていき、ときに爆発する。
少し前にあった電通社員の自殺問題。
東大卒後に電通入社という、誰もが羨むエリートコース。
東大や電通に入ることは、概ね良いことだろうが、絶対に良いこととは言えない。
良いことだと決めつけてしまうと、その中でいくら理不尽なことがおこなわれても、気づけない。
理不尽は消えないし、大きくなる。そして命を奪う。
自己否定は難しいが、プチ自己否定くらいは習慣にしていないと、とんでもないことになる。
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こんな感じなので、師との話は尽きない。
おかげで寝不足だが、寝不足は果たして良くないと断定できるのだろうか、、、