久しぶりに、とてもとても納得のいく記事に出会った。
内容や考え方など、どれも「なるほど、その通り」と思うものばかりだった。
まず、最初が最も大切なところ。
あらかじめ申し上げておくが、筆者の意図は、読者に無宗教を積極的に勧めようとするものではない。信仰が人生の助けになる人もいるし、宗教は文化や芸術にも多大な貢献をして来た。また、先祖のお墓に手を合わせることが、心に良い影響をもたらすという意見もあり、これも否定しない。
こういうスタンスを理解した上で記事やニュースを読むことが大切だろう。
節約だけではない
内容をおおまかに記すと、
・一時的な延命処置をしなかった(本人、家族同意のもとで)
・坊主なしスタイルで弔った
・以前にお母様の決断で、墓を撤去、散骨し、仏壇も撤去した。
といったところだ。
これらの行いに共通していることが「節約」に見えなくもない。
それを理由に、「ドライ過ぎる」「そこは節約すべきでない」といった意見が出てきそうだ。
しかし自分はまったくそうは思わない。
弔いにお金かければ、熱心な気持ちがあるといった理屈や、人が亡くなった時に節約することがなぜいけないことなのか、という合理的な理由は見当たらない。
そもそも、弔いは誰のためにあるものなのか、ということが重要だ。
自分の考えでは、それは生きている人々の為にあるものだ。
節約以外の理由
上記内容を、節約のためだけではなく、生きている人々のために行ったことだとみなせば、非常に合理的な判断だと言える。
延命処置をしなかったのは、生前の話なので本人(後の故人)も関係してるが、家族をはじめとした関係者にとっても、費用、時間、労力を抑え、人生最期の日をゆるやかに迎えたい、という希望を満たすものだ。
坊主なしスタイルについても、費用面は確かに無視できない。
葬儀の平均費用は200万円、これに対してこの記事の筆者のおこなった坊主なしスタイルでの費用は37万円。
最期だから、の一言では済まされない金額だ。
香典を費用に充てることがほとんどだが、これは結婚の際の祝儀と同じく、そのお金が結局誰に入るものなのか、ということを考えねばなるまい。
祝儀も香典も、基本は式場、その周りの関係者に入るのであって、新郎新婦や遺族に入るわけではない。
また、坊主に費用をかけるのがあたりまえといった空気もあるが、坊主とはいえ、他人に違いない。
故人と遺族の絆に比較すれば、大した存在ではない。
故人と最期のお別れをゆるやかに迎えるのに、通夜、つまり夜を徹しての来客応対が必須かどうかは、各々の家族で決めてよいはずだ。
墓や仏壇に関しても同様な事が言える。
「狭い仏壇の中に閉じ込めておくよりも、はるかにご先祖様に対して親しみが湧くし、彼らのことを思い出す」
この言葉への反論は、まったくもって思いつかない。
故人に対して、自分たちで考えて行動する
繰り返すが、弔いも墓も仏壇も、故人のためにあるのではなく、生きている人のためにある。
それらの風潮を守る理由に故人を持ち出すのは卑怯だ。
人が亡くなった時はこうするべき、といった空気も、そもそも論で考え直す時代になっていると思う。
死をもビジネスにしようとする人間の存在否定はしない。
しかし、それに乗っかるかどうかは、考える事でしか答えは見つからない。