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これで元号が変わったら、自分は昭和、平成、新元号の3つの元号を生きることになる。
それはそれで、結構感慨深いな、と感じる。
しかし、そもそも元号とは何のためにあるのか。
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元号と比較されるのは西暦。
そして、日本では「場合によって」その2つを使い分ける。
つまり、どちらかでないといけない場合と、どちらでも良い場合がある。
この「場合」というのは結構曖昧で、これまでの人生の中で「西暦で書くべきか元号で書くべきか」を迷ったことは数え切れないほどある。
さらに、それを変換するのに迷った述べ時間もかなりのものだろう。
正式書類のこともあるので、間違いないようにきちんと調べることもある。
最も、最近はスマホアプリなどで年号、元号や生年月日などを表示するアプリも出ているので、そのストレスは若干和らいだ。
大したストレスではないものの、そもそもなぜ元号にこだわるのかがわからない。
元号は天皇によって変わる。天皇の話は非常に繊細で、軽々しく発言するべきでない。
しかし、自分はそこを紐付けて考える必要があることなのか、というように思ってしまう。
つまり、元号は特に必要ない、といったことを発言すると、どうしても天皇の話なってしまうのだが、別に元号がいらないというだけで、天皇がいらない、天皇軽視ということとは無関係だ、と主張したい。
日本の文化だ、という意見もあるが、書類に元号を書く時に日本の文化を感じる必要があるのだろうか。
役所に提出する書類等において優先されるのは、効率性だろう。その点では上述したように、迷いが生じる時点で効率的だとは言い難い。
そもそも海外では通用しない、という元号不要論に対して、それを言い始めたら日本語は日本でしか通じないから、日本語も不要なのか、という反論があるようだ。
しかし、極論(あくまで極論)をいえばその通りで、確かに全ての国で通じる統一言語があれば、人類のコミュニケーションははるかに盛んになるだろう。
実際に以前そういった試みもされたようだが、現実的にそんなことは不可能で、だからこそ日本では英会話教室が流行る。
つまり、日本語が日本の文化を作った、というのは捉え方のスパンが短すぎるのであって、
日本国内で日本語があった(できた)
↓
他の言語を話す人たちとコミュニケーションをとる必要が出てきた
↓
言語間での意味のすり合わせをした
↓
各言語はそのまま残った
ということで言語が残っているのであって、つまり文化を守るために日本語を守ってきたわけではない。
◆
元号という概念や存在をなくす必要はないだろう。
ある場面では、元号で表記されることもあってよい。
それは、数え歳のようなもので、実生活ではまず使わないが、その存在は残り続けいている。
一方、実生活で使うのは、グローバルスタンダードに合わせて西暦で良いのではないだろうか。
西暦の起源は確かに曖昧だが、書類作成等で必要なのはその起源云々ではなく、スムーズに間違わずに、つまり効率的に書類を作成する為に、海外諸国と「同じ」年号を使っている、ということだ。
現段階で元号表記のものを、少なくとも書類等などはすべて西暦に変えると、そのコストも馬鹿にならない、という意見もあるが、そもそも元号が変わる度にかなりのコストがかかっているので、結局同じことではないだろうか。
正直、この分野はまだまだ勉強不足なので、単純に、そして素朴に思った疑問を書いてみた。