自分はあまりスポーツ観戦をしません。
自分自身もスポーツをしないし、したとしても、対戦ではないジョギングなどのスポーツを好みます。
ビリヤードは例外ですが、ビリヤードは残念ながらスポーツであるかどうかが微妙、という風潮ですね。
自分にとっては確実にスポーツなのですが。
自分が興味があるかどうかはさておき、一つの文化としてスポーツは大きな役割を担っています。
理想論なのかもしれませんが、スポーツを通じて交流を深めることができるのも事実。
だから、スポーツをすることは、健全なカラダ、またはココロが前提になりますね。
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スポーツは例外なくルールに則って行われます。
ルールに則ったうえで、好成績を獲得した者が「偉い」というシンプルさがスポーツの醍醐味です。
上記とは矛盾するかもしれませんが、ココロの綺麗さなんていう一定の基準がないことを成績に加味「しない」のがスポーツの良いところです。
ウサインボルトが、たとえ性格がめちゃくちゃ悪くても、基本的には彼は素晴らしいアスリートです。
性格が悪いとは思えませんが・・・
そのシンプルさ追求の為に必要になるのが、正しい判定です。
人は必ず失敗する生き物なので、人が判定をするとなると、それは失敗すること、つまり誤判定があることを認めていることになります。
だから、訓練を積んだ複数人の判定員(審判)による判定をすることで、その失敗リスク低減を図っています。
スポーツにおいて、シンプルさはとても重要なので、微妙な判定や誤判定は少なければ少ないほど良いでしょう。
逆に言えば、そのリスクを下げる方法は次々に取り入れるべきではないでしょうか。
実際に、既にテクノロジーは判定には欠かせないものになりつつあります。
水泳の順位判定は、その昔プールサイドにいる判定員が上から覗き込み、泳者がタッチした瞬間に判定員の旗を振り上げる、という方法がとられていました。
今は当然センサーです。
今現在、過去の方法、つまり人による判定に戻した方が良い、という意見があるとは到底思えません。
機械にもバグがあり、パーフェクトとは言えませんが、少なくとも人よりは確実性が圧倒的に高いでしょう。
人の方が確実ならば、電卓は普及していないはずです。
人が判定するということ自体に文化性を見出す人もいるようですが、スポーツにおいては果たしてそうなのか疑問です。
全ての物事には、突き詰めれば哲学が存在するので、審判、判定にも哲学、美学は存在するでしょう。それは、正しい判定というだけでない何かが存在するのかもしれません。
しかし、一方競技者にとっては、とにかく確実性の高い判定を望むのではないでしょうか。
そして、スポーツにおいて、観客をのぞけば最も優先されるのは競技者であるはずです。
記事本文中にも「試合の質を高める狙い」という箇所がありますが、これをつきつめれば、誤判定がゼロ、もしくはゼロに限りなく近いもの、ということになるでしょう。
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スポーツを次世代へ伝えていくにあたって、人の誤判定による理不尽な勝敗があると、スポーツに対するあこがれが減るのではないでしょうか。
ぜひ新しい技術を取り入れ、健全なスポーツ文化継承ができるようにしてもらいたいですね。