どのくらい前か忘れましたが、尾崎豊さんの曲「15の夜」の歌詞「盗んだバイクで」が青少年の教育によくないからという理由で、確か「お母さんから記念日に買ってもらった自転車で」みたいな内容に変更させられた、という虚構新聞を見ました。
さすが虚構新聞、と大笑いしたのですが、今回の記事を見たときも虚構新聞の類だろうと本当に思いました。
しかし、どうやら本当のようですね。驚きです。
この記事はネット上で物議を醸しており、その指摘の多くは至極まっとうなものばかりです。
サイトによっては、変更必要、不要の2択を選ばせた統計が見られるようで、私が見たサイトでは、実に98%が「変更不要」という結果になっていました。
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内容の細かい指摘は既にネットで議論されている方(議論というかほとんど批判です)に譲るとして、少し着目点を変えた2つのことについて書きます。
決定過程の空気
上記したように、ネット上でも批判の嵐、統計でも98%が変更不要。
これだけ明確な世間の「変更不要」論が自然であるはずにも関わらず、この変更が決められた決定過程というのは、果たしてどうなっていたのでしょうか。
世間の98%は変更不要という意見を持っている、この数字も調査の仕方によっても変わるでしょうし、そのまま決定に関わった人たちの数字に置き換えられるわけではないでしょう。
とはいえ、もし会議でシンプルに多数決で決められたとして、この数字が50%を下回るとは思えません。誤差の範疇を大きく飛び越えています。
可能性は2つ思いつきます。
一つは同調圧力、いわゆる空気です。上に「シンプルに多数決」と書きましたが、実は決定過程における多数決には、何かしらの圧力があり、健全な多数決とならなかったというもの。
もう一つは、外部からの圧力。つまり変更して得する人、または変更しないと損する人がいるという人が、結構な権力保持者だったというもの。
どちらにしても、全然よろしくないですね・・・
道徳教育って何?
道徳教育って、そもそもどうあるべきなんでしょうか。
話が大きくなりますが、世界中で争いが絶え間なく続くのは、人、組織、国家間の道徳観に大きな隔たりがあるからです。
極端に聞こえるかもしれませんが、日本ではいかなる理由でも人を殺すことは道徳に反する、とみなされます。
一方、どこの国とは言いませんが(わかるでしょうけど)、理由によっては人を殺すことが道徳に反しないどころか、むしろ「善いこと」というところもあります。
日本でさえ、戦時中は対戦国の兵士を殺すことは道徳的に正しいことだったのです。その時代からたった70年ちょいしか経っていません。
人間の定義する道徳観なんて、そのくらい多様だし、変わります。
人を殺すこと、というこの国の現代では道徳的に絶対ありえないことですら、ある国や組織に行けば「あり」になってしまうのに、そこまで極端でないこと、この記事で言えばパン屋がよいか和菓子屋が良いか、おじいさんがよいかおじさんが良いか、なんて一律に定義できるかといえば、できると思うほうが正直馬鹿げていますよね。
私は、道徳教育の根本は考える事だと思います。
考えを深めるためには、人の考え方にも耳を傾けなければならない。
だから、あるテーマについて議論しつくすことがもっとも大切だと考えます。
そして、大切なのはそこで安直な「結論」をださないことです。
政治家は結論を出さなくてはいけませんが、教育時点では結論なんて全く不要ですし、むしろ害です。
結論なんて出してしまうと、思考停止になってしまいます。
テロリストを浅はかに「悪」とみなして皆殺しにしたら世の中が良くなる、という単純なものではありません。
もちろん話し合いで解決するほど悠長な問題でもありません。
しかし、実務関係者でないほとんどの人は、それに対して考えることが最も大切なのではないでしょうか。
人を殺すことは悪いことです、なんていう結論を大人が浅はかに出してしまうと、それをやり続けるテロリストの発生原因なんて誰も考えずに、アタマのおかしな奴らがそうなるんだ、といった幼稚な考え方になってしまいますよ。
それで世の中が良くなると思う人っているのでしょうか。