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教育は、公に近ければ近いほど一般論的になり、最大公約数的なものになりますが、逆に言えば、個人に近くなればなるほど一般性を欠いても許される傾向にあります。
他人の躾に意見したとき、「うちの教育方針だ、ほっといてくれ」ということがなんとかまかり通るということは、つまりそういうことです。
考えてみれば、不特定多数相手に施す教育と家庭内での教育が同じ内容になってしまうと、それはそれでなにか不健全な気もしますね。
親のエゴ的な希望を、ある程度ならば子どもに託すのはありだと考えます。
要はその度合いが大切です。
冒頭に貼った記事のように、教育論ではなく医学的にNGという行為は、親のエゴ的な希望ではなく、単なる虐待、犯罪行為に近いものです。
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記事中にもあるように、日本は海外諸国に比べて、体罰規制が少ない印象があります。
その理由の一つは、根性忍耐至上主義ですね。
体罰は痛い。しかし、見方によっては教育の一環になりえるという考え方があります。
すると、痛さに耐える根性が人を育てる、というロジックになります。
これがよくある間違いに発展して、根性を身につけるためには痛さに耐えることが必要ということになってしまいます。
論理的に間違っています。
(AならばBとBならばAは間違いです)
もしかして、そういった一面はあるのかもしれません。特に戦後間もない、混沌とした時代には、そういった方法で教育を施していくくらいしか選択肢がなかったのかもしれません。発想としても、実際の行動としても。
しかし、今はそんな時代ではありません。
情報があり、テクノロジーがあり、文化があり、多様性があります。
全ての人が、明日食べていくため「だけ」に働き、行動しているわけではありません。
もしかして、根性忍耐が必要なのは時代が変わっても同じかもしれません(違うかもしれません)。
しかし、それを身につけさせる方法に体罰しか思いつかないのは、思慮が浅い。
昔だって、もし体罰なんてなくてもまっとうな教育が出来るのならばそうしたかったけれども無理だった、という消去法的選択だったわけでしょう。
暴力行為を善とする人はほとんどいないでしょう。
体罰以外の方法を、経験論を一度捨てて考え始めなくてはいけない時代です。
医学的にNGなことと言われても、根性忍耐教育のためには仕方ないんだ、というのは、あまりにも論理性を欠いています。思考停止ですね。
もし体罰推進派が反論したいのならば、体罰によってどのような成果が上がるのかを、経験論や観念論を除いて説明する必要があります。
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ちなみに、私はというと、父親にボッコボコにされて育ちました。かなり厳しかったですね。
しかし、人を殴った経験はほとんど(?)ありません。
子どもは女の子だからということもありますが手をあげたことはありません。
恐怖心は幼少期からあるので、言うことを聞かない時にぶん殴るのはある意味最もてっとり早い方法です。
しかし、それ以外の方法を探してみる労力を端折ることは許されません。教育者失格です。