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— KeisukeHonda(本田圭佑) (@kskgroup2017) 2017年5月30日
このツイートが話題になっています。
どちらかと言うと批判的な意見の方が多い印象ですが、どうなんでしょうか。
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私ははっきり言って自己責任重要視型です。
そして自由と責任は必ずセットでないといけません。
就職一つとっても、職業選択の自由と、就いた仕事を責任もってやることはセットです。
自分で選んだんだから、ちゃんとやりなさい、です。
自分で選べる自由や権利が無かったら、俺が好んで選んだんじゃねーよ、となります。
(強制的な徴兵とかがあると、こうなっちゃいますね)
しかし、自己責任の範囲が及ばないこともありますよね。
自己責任が及ばないというのは、上のロジックからすると、そこに選択の自由や権利がないこと、ということになります。
難しそうですが、結構身近なことです。
例えば先天的な病気や障害を持って生まれてくる人。
(後天的な病気の一部も、運としか言えないものありますが、これも含みます)
例えば紛争が続く地域で生まれた人。
例えば震災で被害にあった人。
これらの人に自己責任だとは到底言えません。
繰り返しますが、そこに選択の自由や権利が無かったからです。
運まで自分の責任だ、ということになると、世の中の犯罪被害者はすべて、運が悪かったね、で片付けられてしまいます。
国家はそれ(自己責任が及ばないこと)を保証するために、税金を投入します。
生活保護や、障害者に対する優遇はこれにあたります。
自分自身で努力し、富を作り上げたひとから、その一部を納税させ、社会的弱者に分配するわけですね。
納税を義務としている理由は明らかです。どんな成功も、例えば日本ならば、日本という国家がなかったら絶対に成しえなかったから、という論理ですね。
つまり、成功要因の一部は国家にある、ということです。
私たち世代は戦争を経験していないので、食べるものが安全で、その辺を歩いていても銃弾が飛び交わない、といった平穏な日々を維持するのにどれだけ国家が金と労力を使っているのか、使ってきたのかということを認識しにくいのですが、それは他国の状況をみれば明らかです。
さて、話を最初に戻し、本田選手のツイートです。
自殺という選択をしてしまった人に、選択の自由があったのかどうか、ということが鍵です。
表面的に言えば、自分で行うことなので、選択した自由がありそうですが、精神的にかなり追い詰められた状況で自殺を選択した人間に、生きるか死ぬかという選択の自由がある、とは言えません。
死神は実在しませんが、その概念のようなもの、つまりもう自殺するしかない、という選択肢しか選べないという状況はあります。
ここに自由はありません。
ちなみに、政治や社会という具体性のないものに対して批判するのはどうかと思いますし、それを理由に自殺する人もどうかと思いますが、本当にそれらが理由で自殺する人は全体の何%いるのでしょうか。
数の問題ではないのかもしれませんが、、、
自由が無いのならば、周りが助けるのが筋です。国家、家族、友人が手を差し伸べて、なんとか思いとどまらせることは、納税と同じ義務に近いものがあると考えます。
有名サッカー選手で、言動一つが大きな影響力を持つ故に、批判よりも手を差し伸べることを考えてほしい、と願います。