最初に書いておきますが、この記事のタイトルはいけてない。
これだけ読むと、苦しまないと優しくなれない、苦しさは不可欠、といったニュアンスで受け取る人が結構いるのではないかな、と思います。
かくいう私もそうでした。
中身は少し違います。
そうかな、と思う部分もありますが、大枠としては同意します。
宗教の世界にいる人の意見というのは、宗教というだけでアンチ科学・医学だったり、ロジカルなことより感情を優先したりするイメージがありますが、この記事を読む限り、そうとも限らないと思います。
それはもう、ある種の軽いノイローゼですから、出来ればお医者さんへ行って、そして安定剤をもらうとかね、カウンセラーが一番いいんですけどね、そういうところへ行くしかないですね。
アンチ医学では出てこない言葉ですね。
一方、やはり疑問視してしまう箇所もあります。
神様は、人間に耐えられない苦しみは決してお与えにならない。だから、私が与えられた苦しみは、耐えられるから与えられたんだ
これは寂聴さんの言葉ではなく、寂聴さんが田中澄江さんという方(すいません、知りませんでした)から聞いた話しで、これに対して寂聴さんは「偉い方だなあ」と思ったそうです。
そんなことありません。
その苦しみに耐えられずに、精神に異常が出たり、自らの命を断ったりという人はたくさんいます。私の身近にもいます。
それは精神的に弱かったり、命を軽視していると言われたりすることもあり、たしかにそうなのかもしれませんが、「耐えられなかった」ということだけは現実です。
日本は年間の自殺者数が2万人以上いますが、自殺の原因は様々なものの、要するに何かに耐えられなかった結果ではないのでしょうか。
痛みや苦しみを経験していない人は、その痛みや苦しみを想像しにくい。人の痛みや苦しみをわかってあげられる為には、自分自身は痛みや苦しみを味わうこと。
このロジックは正しいのですが、記事中にもあるように、痛みや苦しみはあわよくば全く無い方が良いですよね。
しかし、これが全く無いことは現実的にありえないので、減らそうとする工夫を個人も社会もするわけです。
それに、70年以上戦争のない日本の国民だって、世界の紛争地域での惨状を記事や写真、映像で知り、心を痛める人もたくさんいます。
その想像は、実際に経験した人とは次元が違いますが、それを言い始めたら、同じ境遇で痛みや苦しみを感じている人にも個人差があるので、キリがありません。
間違っても、痛みや苦しみが多ければ多いほど、それを味わうの人の気持ちに寄り添えるというロジックの元、痛みや苦しみが多ければ多いほど良い、となるのだけは避けるべきです。
痛みや苦しみは、不可抗力のことが多い。その結果の次に、経験を活かすというのが順序ではないでしょうか。
最後に、上まで書いた事とはあまり関係ありませんが、
忘れるという能力が人間にはあるんですよ。
この部分には100%同意します。忘れることは素晴らしい。