ここに書いてあることは至極まっとうです。
かくいう私も、元号ってはたして必要なのかな、と疑問に思っています。
私ごとき庶民が元号のことを考えても、それが存続するのか廃止されるのかには影響がなさそうなので、関連書籍を読み漁って、識者に話を聞きに行く、なんてことはしていませんが、現代風にネットで色々と調べてみました。
そこで気づいたのですが、元号存続派と元号廃止派は、合理主義か否かということになっているようですね。
冒頭の記事にも書いてあることも含めてですが、廃止派は元号が合理的でないことをとにかく訴えます。
具体的には、計算が面倒だとか、公文書が元号なので、変わるたびにシステムを変更するコストがかかる、など。
計算が面倒なのはスマホあたりを使えば幾分軽減されますが、システム変更は、まさにバカにならないコストでしょう。
一方存続派は、日本国家としてのアイデンティティーとか、元号は日本の歴史の象徴だ、とかいうより観念的な訴えです。
ちなみに、元号を採用している国家は今のところ日本だけのようですね。
さらに、存続派の主張の裏側には、議論が時にタブー視される天皇が見え隠れしています。
多分このへんもあって、国会やメディアでも堂々と議論できない、という事情もあるのかもしれません。
私は基本的に合理主義です。
となると、当然元号廃止派、となります。
しかし、合理的なことがいつでも誰にとってもよい、というわけでもないし、合理と非合理の共存だって可能ならばその方がよいのかもしれません。
というわけで、元号に関しては、元号自体は廃止せず、使い方を考え直すのがもっともよい決着点だと思います。
具体的には、公文書あたりはすべて西暦統一がよいと思います。
アイデンティティーは、役所で手続きをする時に感じることでもないでしょう。
そもそもなんですが、日本の歴史教育はほとんど西暦で教えますよね。
関ヶ原の戦いが西暦1600年ということを知っている人は多くいそうですが、慶長5年ということを知っている人は少なそうです。
アイデンティティー云々という面では、歴史教育において元号を使うことの方が、役所の手続きよりは幾分アイデンティティーを感じそうな気がしますが、元号存続派は、ここには文句ないんですかね?
それはさておき、歴史教育において西暦で習ってきた人の中にもしっかりと日本のアイデンティティーは育っているらしいので、今更公文書の元号を廃止したくらいでは、アイデンティティーは失われないのではないでしょうか。