私は、当ブログで何度も書いていますが、自己責任主義です。
自由と責任をセットだと考えています。
国や組織は、最低限の規律により秩序が保たれている「場」だけを提供するのが最も良い、と思っています。
そうすることによって、自由な発想や競争が生まれるし、強要、強制に苦しむ人も減らすことができる、と考えています。
と、この考え方には結構自信もあったし、理屈も通っている、と思っていたのですが、、、
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幼少期、物心ついたときには既にピアノを習っていましたが、それ以外のいわゆる「習い事」はしたことがありません。
習い事、特に大人になってからのそれは、ほとんどの場合自分自身の意志でいくものです。
習い事は、それが長く続けられる人も、続けられない人もいるようです。
習い事に行ったことのない私なりにそれをどうとらえているのかと言うと、自分が習いたいと思っているのだから、自分の責任で続けること、続くかどうかは完全に本人次第、といった感じです。
もちろん、その習い事機関の授業がとてもレベルが低いとか、値段がべらぼうに高いとかだったら別ですが、教育としては問題ない質と値段なのに続かないといった場合は、そもそも本人の「意志」が「続けられるほど」ではなかった、という自己責任型思考です。
とまあ、そういった話を友人(習い事経験あり)としていたら、そう理屈通りにはいかない、反論されました。
その友人曰く、、、
確かに続けられない最終責任は自分自身にあることは間違いない。
でも「続けたいとは思うけど、どうしても重い腰が上がらない」というギリギリの人もたくさんいて、その背中をポンと押すだけで続くこともある。
その人に意志があるのかどうかといえば、あるとみなしていいレベル。
さらに友人は続けます。
そういう人の場合は、組織からのある程度の強制力があったほうがよくて、逆にその強制力を求めるということもある。その強制力が自分のやる気スイッチを押してくれることもある。
これって、結構一般的なんですか?
私にとってはめちゃくちゃ意外でした。
やる気がある人は、自分の意志「だけ」で続けられる。
続けられないのは、やる気がないことの表れ。
このシンプルな理屈が成り立たないわけです。
そして、これが人の弱さであり、もっと言えば人らしさでもある、と知人は言うのです。
考えてみれば、食べたら肥ると「絶対に」わかっていても食べてしまう人。
貯金して一括で買う方が金利がなくて安いのに、ローンを組む人。
こういう人はたーーーくさんいますが、当然理屈にはあっていません。
正当化しているのではなく、そういう人がたくさんいるということは、人が理屈通りには生きられないということを証明している、ということですね。
私のいる世界は狭い。自分の考えている感覚なんて、本当にちっぽけな感覚です。
本当に許せないレベルのグダグダな人を除いて、もっと許容量の大きい人間になるためには、この辺の理解はないと難しいかもしれませんね。
日々是勉強です。