敬愛するジャーナリストである佐々木俊尚さんが、ツイッターを休止されました。
ほぼ毎朝されていた朝キュレからは、情報洪水の中から良質な記事を拾ってくるプロフェッショナルを感じずにはいられないほど面白かったので、とてもとても残念です。
発端となったのはヘイトスピーチ、その関連記事のようです。
この辺は、確かに敏感に反応する人が多いようなので、怖がりの私は意識的に避けています。
しかし、ツイッターでそういった文面を見ていると、暗澹たる気持ちになることもしばしば。人の振り見て我が振り直せといいますので、私はこういったことはしないでおこう、と肝に銘じております。
逆に、意識しなかったら口撃になることもあります。
口撃と書いたのは、それが、話すことより数段遅く、あとで修正も効く「文章」においてならば、冷静さを取り戻せることが多いということを示しています。
汚い言葉を投稿やツイートする人というのは、もう冷静さをかなり取り戻せないところまで来てしまっているのかもしれません。
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日本は先進国で、1億人以上が住んでいます。そして人は外見も中身もみんな違います。
そんななか法律や予算を決めていくとなると、一筋縄ではいきません。
だから、議論をしつくして、みんなの合意平均点を80点くらいにもってこよう、というのが議会制民主主義だと捉えています。
しかし、相手を罵倒するような議論は、そもそも議論というより喧嘩と呼ぶべきであり、その結果法律や予算を決めるとなれば、たとえ同じ法律、予算であって、かつ平均点が80点を超えていても、その分散度合いがまるで違います。
それが健全かどうかなんて自明ですよね。
生物学には詳しくありませんが、ヒトも多くの動物が持ち合わせている闘争本能、もっと砕いていえば負けず嫌いの性質は、多かれ少なかれあるでしょう。
だから、意見が違う時に、相手を説き伏せようと考えてしまうのは仕方のないことなのかもしれません。
しかし、だからこそ違う意見に耳を傾けて議論を尽くす、という行為がとてもとても人間的に思えるのです。
意見を出し合って戦ってはいるものの、相手を負けを望んでいるのではなく、自分の勝ちを望んでいるのでもなく、お互いの歩み寄りで80点まで持っていきましょう、という行為はとても素晴らしくて難しい。
でも、表面的な変化は実は大したことではない、と思っています。
特に文章の場合は上述したように、冷静になる(思慮を深める)時間が味方してくれますからね。
「は?何いってんの、頭わりー、はなしになんねーよ」
これを
「おっしゃっている意味がわかりかねますので、議論が成り立ちません」
と言い換えるだけで、随分大きな変化です。
上は、今すぐに喧嘩議論に勝ちたいだけで、下の議論は建設的な議論を続けたい、もしくは望んでいるというように捉えられます。
日本の問題も世界の問題も、議論なしには解決しません。
そして、喧嘩は議論とはまったく違います。つまり議論の邪魔になっちゃいます。
建設的な議論が繰り広げられる世の中になってほしいと願っています。
あと、佐々木さんには一日も早くツイッターを再開してほしいと願っています。