最近武井さんがマイブームです。素晴らしいですね。
この記事にもとても納得いきます。
私は立場上音楽においてですが、似たようなことを思うことが多々あります。
なんでもそうでしょうが、技術は始めてからすぐが最も伸びます。
ギターを始めた時は、毎日自分が上達しているのがわかり、それがさらに練習を加速させ、という相乗効果を生んでいました。
毎日10時間くらい弾いても辛くないのは、10時間分しっかり上達するからです。
しかし、その伸びをずっと維持することはできません。難度が高くなればなるほど、それを習得するのに時間がかかるのが当たり前だからです。
ある程度ギターがうまくなって、それからさらに伸びる人と、そこで停滞してしまう人の差はなんでしょうか。
その一つが「完コピ具合の差」です。
初心者の頃は押さえやすいコード、ゆったりとしたテンポの曲を中心に基礎練習することが多いのですが、そのあたりが一通り終わったら、モチベーションの維持という理由もあって、好きな曲のコピーに入ります。
好きな曲なので、それを自分で弾けると嬉しいわけですね。
コピーには、完全にコピーするという略で「完コピ」という用語がありますが、この用語には実は幅があります。
ギターのバッキング(伴奏)ならばコードをコピーするわけですが、そのコード進行をすべて弾けるようになって完コピ、という人もいます。
もう少しレベルが上がると、ギターの場合同じコードでも押さえ方が複数存在し、各々音が(音程ではなく)少し違うので、どこでそのコードを押さえているか、までコピーします。
これは一例で、この中間レベルの完コピは山ほどあります。
さらにさらにレベルが上がったコピーは、使っているギター、ピック、弦にとどまらず、弾き姿、服装までコピーします。
このレベルは、先天的なもの以外は全く同じで、ほとんど交換可能というレベルです。
私のある知り合いには、ライブ映像を見まくって、曲と曲の間にどのくらいの「間」があるかまで体が覚えている人がいました。
ライブ映像の音を消しても、その人はなんなく2時間分のギターを弾ききっていました。
ここまでくると、ギターの上達とは関係ないんじゃないか、と思うかもしれませんが、実は結構関係あります。
そもそも良いギターとうまいギターというのは別の尺度で、ギターの部分ばかりにとらわれている人は、後者、つまりうまいギターのレベルまでしかいかないわけですね。
しかし、あるミュージシャンが好き、ギタリストが好きというのは、その要素に必ずと言って良いほどうまさ「以外」が含まれています。
それを意識できる人と無意識の人がいます。
無意識の人は、近づこうと思ってもなかなかたどり着きません。だからうまいけれども交換可能というレベルには達しません。それは、そこまでの魅力がなんなのか、人を魅きつける力とはなんなのか、という全体像が見えていないわけです。
つまり、うまくなればかっこよくなる、と考えてしまうわけです。
冒頭の記事中で武井さんが言っていることはそういうことだと思います。
同じように努力した、という言葉と同様、「完コピ」が真の意味での「完全」な「コピー」になっているか。そこに意識をもっていけた人は、間違いなく良いギタリストに成長します。
さあ、完コピをやってみましょう。