日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

犯罪者に論理性は求められない

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6324792

朝からこのニュースが、速報でバンバン入ってきます。

同じ年の娘を持つ親としては、心が苦しくなります。 遺族の方の精神が心配です。

こういったニュースが流れると、コメント欄に必ずあるのが 「死にたいのならば勝手に死ね」 「人を巻き込むな」 といった類のものです。

私もそう思います。 法律上、安楽死尊厳死は認められていないこの国では、自分自身にすら生死を決定する権利は与えられていません。 しかし、法律の前にそもそも的なことを考えてみたときに、自分自身の生死を決定する権利と、自分以外の人間の生死を決定する権利、どちらのほうが権利として認められる方に寄っているかといえば、圧倒的に前者です。 その前者すら認めるのが難しいのに、他人の生死なんてもってのほかです。 (だからこそ法律上でも殺人は重罪になっています)

上記コメントをしている人のスタンスは、法律はさておき、自分自身の生死の権利は認めてあげても良いけど、自分以外の生死の権利は認められない、ということです。

話が冗長になっていますが、言いたいのは、そんな論理的な思考を犯罪者に求めることは不可能だ、ということです。 第一、通り魔的犯罪を起こすこと自体が論理的に考えて何一つ良いことが無いわけです。

ニュースのコメント欄は、感想を書く場なので、良識の範囲で自由に書き込みをしても良いでしょう。 しかし、もう一方すすんで考えたら、その感想によって巷の反応を知り、世の中の空気が変わって、という活用の仕方を考えるべき、と思うのです。 そんなとき、「死にたいのならば勝手に死ね」というコメントにはあまり意味がありません(念の為、だから書くな、という意味ではありません)。

世の中からこういった犯罪が完全になくなることはないでしょう。 だからこそ、少しでも減らすためにどうするべきか、ということを社会全体で考えていくべきだと思います。 犯罪者に論理性を求めるのは無理です。 そういった人たちもいてしまうのが現実、ということがスタートです。

かといって、私になにかしら良い策があるのかといえば、あまり思いつきません。 当たり前ですね。私が思いつくくらいのことは優秀な人たちがとっくに考えているはずです。

だから集合知をもって、社会全体で考えていかなくてはいけないのだと思います。

犠牲になった方に心よりお悔やみ申し上げます。