働くことと大変なことは、関係ありません。
楽しくても労働、辛くても労働。どちらを選択しますか?
少なくとも選択的自由はあります。
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労働は社会を最も的確に表わします。
人があつまり、社会を形成し、ルールを作ります。
一人でも多くの人が生きていけるように、各々が得意なことをして協力し合います。
これが働く根本原理です。
働くことは大変なこと、嫌なこと、辛いこと、何かを犠牲にすること。
これらは結果論であって、そうでないといけないものでは決してありません。
要するにバランスの問題だと思います。
労働とお金は密接に関係しています。基本的には働く時間が長ければ長いほど、お金もたくさんもらえます。
その時間を、お金がもらえるために時間を有意義に使っていると思うのか、お金のためにプライベートを犠牲にしているのかです。
大抵の場合はその間ですが、そのバランスが各々で違うわけですね。
わかりやすく言えば、もう間もなくやってくる正月。
正月でも営業している飲食店は結構あります。
正月に出勤した場合は、アルバイトも含めて特別手当がでます。
このとき、もし出勤するかどうかを選べるとしたら、この特別手当をあてにして仕事を入れるのか、お金よりも家族や友人との時間をとるのか、というのがひとぞれぞれ違うわけですね。
これも厳密に言えば2択ではなく、もらえる金額によるということです。
手当が20万円出るのならば、大体の人は働くはずです。
手当が20円ならば、大抵の人は休むはずです。
では5万円ならば?10万円ならば?ということですね。
労働は時代を映し出す鏡です。
働くこと、それによってももらえるお金、それによって失うプライベートな時間。
何をどう優先するかを選んで良い時代、多様性を認める時代になりつつあるのだと思います。
冒頭の記事もそうです。
数日前に競争意識について書きました。
少しでも高い地位について、その分の高い給料をもらう、という選択しかなかった時代があったわけです。
出世していない人は、出世できない人と決めつけられた時代。
しかし、今は違います。少なくともそこに選択的自由はあります。
一生平社員でも構わない、という人がいてもよいだろう、ということです。
ちなみに平社員であるということと、向上心がないということとは関係ありません。
能力を高めたいけれども地位はいらない、という人がいるということです。
働き方を決められる時代において、自らの意志で働き方を決めない手はありませんよね?