日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

ミスをした人に対する態度

 
割りと刺々しいタイトルの記事に目が止まったが、結構共感するところがある。
 

苦しさはスポーツの必要条件?十分条件

 
スポーツの世界は、何かと言えば努力、忍耐、根性という言葉を使う人が多い。
それが悪いとは言わないが、そこばかりにとらわれすぎて、見えなくなってしまうものも多くあるのではないだろうか。
 
例えばうさぎ跳び。
 
ウィキペディアで調べると、いきなり冒頭にこういった文章がある。
 
動作に苦痛を伴うため、日本のスポーツ指導者が特に好み、学校教育においても頻繁に行われていた。
 
この文章、まったくわけがわからない
なぜ苦痛を伴うことが、学校教育で頻繁に行われる理由になり得るのだろうか。
スポーツは、苦しむためにするのではない。結果を求めて身体を鍛える過程に、苦しさが伴うこともある、というだけで、苦しくなくてももちろん立派なスポーツだ。
 

その指導は、本当にミスを減らせるのか

 
話がそれたが、ブログタイトルにもあるように、ミスをした人に対する態度にも問題があることが多い。
 
その前に、前提として「ミス」は、やはり少なければ少ないほど良いと思う。
どんな作業にしても、人間がすることなのでミスは発生し、それを0にするのはほぼ不可能だ。
だからこそ、人はそれらをいかに0に近づけるかの試行錯誤を繰り返している。
機械やコンピュータの活用もその一つだ。
 
さて、ミスは少なければ少ないほど良いという前提があるのならば、それをした人は、やはりそれを今後いかに減らすかを考える義務があるだろう。
 
大切なのは、ミスを減らすことだ。
 
リンク記事にもあるような、ミスをした人に対して怒鳴るという行為はどうだろうか。
怒鳴るという行為が認められる為には、その結果ミスをした人のその後のミスが減ることが確認できないといけない。
 
スポーツをやっている人にも様々なタイプの人がいる。
その中には褒められて成長する人もいれば、怒鳴られて成長する人もいる。
後者の中には、怒鳴られた後にミスが減っていく人もいるかもしれない。
 
しかし、決してそうでない人もいるだろう。
怒鳴られてミスが減らない人はそのスポーツに向いていないのだろうか。
それは、指導方法の試行錯誤を放棄していることの口実でしかない。
 
スポーツ指導者の仕事は、スポーツの結果を出すことだ。
(更に言えば、それを通して人間的成長を促すことだが、、、)
そのためには、一人ひとりのタイプを見極め、良い結果を出すための適切な指導を行うことが必要不可欠なはずだが、こういった怒鳴ることしかしない指導者は、暗に「この指導で成長しない人はこれに向いていない」ということを言っているのと同じことになる。
 
指導方法の先に結果があるのではない。
結果から逆算して指導方法を決めるべきなのだ。
 
人はみな違う。
全ての人に対して、同じやり方で指導をするというのは、教育者としての怠慢でしかない。
 
過度な体育会系の人は、脳みそまで筋肉までできている、と揶揄されることがあるが、こんなことを言われないように、しっかりとスポーツ指導者も考えて指導を行ってほしい。