先日知り合いから、「人の脳は変化を恐れるようにできている」という話を聞いた。
要は、恒常性のことだろう。
しかし、この本能は、社会を形成する人間社会においては、あまりよくない機能だな、と思わざるを得ない。
身体的なものに関しては、理にかなっていると思う。
少々の変化が環境におきても(例えば食べるものが変わるなども含めて)、それにあまり敏感に反応し過ぎないように、ということだ。
ハンドル操作で言うところの「アソビ」に近い。
しかし、脳、つまり思考に関しては、まずい。
社会環境の変化は、いつも起きている
なぜなら、社会環境はどれだけ恒常性を求めても変化していくからだ。
ヒトは人間社会を形成する。
人以外の他の生物が、そのほとんどをサバイバルの為にだけ社会を形成する(もしそれを社会と呼ぶのならば、だが)ことに対し、ヒトが形成する人間社会は、サバイバル以外の要素が多くを占める。
そこには、幸せや快適さ、といったどうやって定義するのかさっぱりわからない要素が入り込む。
簡単に言えば、今から100年前の人が感じる幸せ、快適さと現代の人が感じるそれは、おそらく相当違う。
時代は同じでも、いまこの瞬間に日本人が感じる幸せ、快適さと、日本人以外が感じるそれも違うだろう。
同じ日本でも、都会に住む人と田舎に住む人のそれは違う。
そして、社会を形成するにあたっては、その違いを歩み寄りによって、「ある程度」共有していくことが必要とされる。
具体的な例を出そう。
結婚した夫婦の間に生まれた子供を塾に通わせるかどうかで意見が割れた場合。
この夫婦各々には、塾に行かせた方がよい理由、行かせないほうが良い理由があるはずで、どちらにもそれなりの根拠がある(とする)。
だとしたら、話し合いの結果、どちらかを選択するしかなく、その場合どうしても片方には、自分の「思考」の変化を求められる。
ちなみに、この夫婦が歩み寄ることが出来ず、結局離婚ということも考えられるが、お気付きの通り、これがもっとも大きな変化だ。
こんなことは、日常茶飯事だ。少なくとも人間社会においては。
何度も言うが、これはヒトが幸せ、快適さという、わかったようでわかっていないものを求めて社会を形成していくからこそ必然となる。
だとすれば、「変化すること」に慣れたほうが得だ。
どうせ変化しなければならないのならば、変化を恐れずに、逆に楽しめたほうが、それこそ幸せだし快適だ。
ダーウィンも言っていた。
「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」