日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

偽善と善行強要

偽善は、善行のイメージ悪いバージョンです。

「偽」という漢字がそれを示していますね。

善行が偽善と非難される理由は何でしょうか。

例えば被災地の救助に関わる人々。

自衛隊、その他救助隊員はお金をもらって人助けの訓練をし、有事の際にそれを実践していますが、これは偽善ですか?

違いますね。それは仕事であり任務であり、そして責任ある行動でもあります。

これを偽善と呼ぶ人は少なそうです。

一方ボランティアはどうでしょうか。

偽善という批判は、どちらかというとこちらの方に向けられることが多いようですね。

人助けという、基本的には同じ行動ですが、明確な違いはボランティアが基本無償で行うものだということです。

寄付についても考えてみましょう。

あるものを店で購入して、お金を払う。これを偽善と呼ぶ人はいません。

しかし、困っている人に寄付という形でお金を払うと、その一部は偽善と非難されます。

これらの例をみると、不思議な事に気付きます。

「何か」と「お金」が交換されると、偽善ではありません。

どちらかしかないと偽善となります。

救助の例では、行動だけでお金が発生しないボランティア。

寄付の例では、お金だけでモノが発生しない。

そして、お金が発生したり、あるいはしなかったりということが、重要な要素として存在しています。

つまり、お金の価値観をどのくらい上位に置いているか、ということで偽善と呼ぶ人とそうでない人が分かれるのでは、と考えます。

救助の例では、人助けとお金を天秤にかけ、「お金をもらわずに人助けなんか割に合わないから、なにかしらの思惑や見返りを期待しているのだな」と考える人は、ボランティアの人々に対して、偽善という批判をするでしょう。

その証拠に、救助対象が身内や友人ならば、助けられた人からお金をもらわなくても偽善と呼ばれることは少ないでしょう?上に書いた天秤が、わかりやすく傾いているからですね。

寄付という形で人助けをすることも同じです。「何をもらえるわけでもないのに、人にお金をあげるなんて、なにかしらの思惑や見返りを期待しているのだな」と考える人は、寄付をしている人に対して批判をするでしょう。

これも同じで、親が成人した自分の子どもにお小遣いをあげること(行為自体は寄付とまったく同じです)を偽善と批判する人はいません。

成人した子どもにお小遣いをあげるという行為は、それはそれで甘やかしという問題もありそうですが、ここではフォーカスがブレるので割愛。

当ブログでは、何度も「お金には交換価値しかない」ということを書いてきました。

つまり、価値があるのはお金をつかって交換した何かの方だ、ということです。

上記の例で言えば、人助けですね。

だとすれば、有事の際、人助けの価値を最上位に置く人が多くいることは想像に固くありません。

一方、ボランティアや寄付を強要することも危険です。

ボランティア活動の強要はボランティアではなく徴兵です。

寄付の強要は寄付ではなく税金です。

違いを明確にしておかないといけませんよね。

人の善行を偽善と言って批判するのはいかがなものか、と思います。

同時に、善行強要も同じくらいいかがなものか、と思います。

ひとそれぞれ自分の出来ることを出来る範囲ですれば良い。それが秩序を大きく乱すものでなければ、個人に裁量が委ねられている、と考えることが重要だと考えます。

famo-seca.hatenablog.com

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