リンク先にも書いていますが、手段の目的化は少なくともここ日本では起こりやすいようですね。
ここに書いてあるように、おせちも年賀状も、「伝統的なもの」なので「やらなくてはいけないもの」ではありません。
ただ、バレンタインもハロウィンもクリスマスも、本来の目的とは逸脱しているイベントになっています。そしてそれを誰も咎めてていないし、私もそれで良いと思っています。
だから、おせちや年賀状のもともとのあり方と現代のありかたに差がある事は別にかまわないと思います。
問題だと思うのは、それが伝統を守っていく為に必要なこと、という概念。
それから、伝統の中身です。
伝統という言葉はこういう時に都合よく使われますが、そういう人の中で伝統の中身をよく知っている人はあまりいないように思います。
伝統的な、という言葉は単純に長い時代行われてきた物事を指すと思いますが、具体的に何年と決まっているわけではありません。
だから、長い時代行われてきた感じだけ、を伝えるときには丁度良い言葉です。
それから中身ですね。
確かに、私の幼少期には、親類が一同に会しワイワイとやるなかで、せっせと働いているのは女性ばかりでした。
それはそれは、子供だった自分でもわかるくらい大変に忙しそうで、「女性にとっては、正月は楽しいものじゃない」と愚痴っていたのも覚えています。
何をするにも、だれかが労力をつぎ込まなくてはいけません。
しかし、労力をつぎこむ事が目的ではない、ということですね。
つまり、味と金額に不満がないのならば出前でもかまわないわけです。
店は嬉しい、家の人も楽できる。何か問題あるんでしょうか?
だれもやりたがらなかったら、やらなければ良い。
誰も困りません。
あと、年賀状ですね。
普段なかなか連絡をとらない知人。
かといって用もないのに連絡をとるのも気が引ける。
そういう時に好都合なのが年賀状。
1年に1度の葉書による連絡でも、その人が元気であることを確かめることができますよ。
こんなことを小学生の頃に言われていました。
しかし、いまはどうでしょう。SNS全盛で、その人のアカウントを除けば近況は大体わかります。
それに、私の記憶では、仕事をしている人が送る年賀状の多くは慣習でしかなく、相手の近況を気遣っているという印象はあまりありません。
さすがに、年賀状が来るかどうかでその人となりを判断する人は減ったと思いますが、いまだに郵便局は年末年始が多忙を極め大変なことになっているらしいので、もう少し出す人が減って落ち着くくらいで丁度良いのではないでしょうか。
まったくゼロになることはさすがになさそうですけどね。
あるのかな、、、