職業を選ぶ基準は何だろうか。
給料、勤務地、待遇、職種など様々で、恐らくそのうちのどれかだけではなく、それらを自分なりのバランスで測り、決定するのだろう。
ブラック企業という言葉が有名になるに連れて、「残業なし」といった待遇を売りにした広告や企業も出てきた。
しかし、残業がないといった待遇を第一条件で設定するのは、賢い職業選択と言えるだろうか。
何のために働くのか
そもそも、日本では働くことを「食っていく」といった言葉で言い換える。
全ての生物が生命を維持するうえでどうしても必要なことが「食」なので、食っていくとはつまり、生命を維持するという言葉をよりわかりやすく言い換えているということだろう。
余談だが、逆に言えば食っていけさえすれば生命は維持できることも多い。
自分で畑を耕し、自給自足をすれば、とりあえず生きていくことはできる。
しかし、他の動物ならいざしらず、ヒトは「衣・食・住」というところまでが生きていくうえで最低限必要なものとみなしてよいだろう。
裸で野宿が何十年も続く、というのは少し考えにくい。
さて、働くことを「食っていく」という言葉で言い換えることは、果たして全ての人に摘要できるのだろうか。
自分としてはいささか違和感を覚える。
食っていく為に働く、というよりは、働いて食う、というニュアンス。
要は順番が違う。
より多くの共存を目指して
職業を選択する上で、給料や待遇は、食っていくために仕事をするという基準からすると最も重要だろう。
しかし、なぜ働くという行為が世界中の人が義務付けられているのかを考えた時に、それはこれだけたくさんの人が生活している状態で、より多くの人の共存を目指すためではないだろうか。
人はみな違う。本当に違う。
好き嫌いや得手不得手も様々だ。
だから、自分の好きなこと、得意なことを社会にあたえ(供給)、自分の不得意なところをサービスとして社会からもらう(需要)。
人がみな違うことを逆手にとって、需要と供給を絡めれば、多くの人が共存できる社会に近づくのではないか、という試み。
だから、世界中の人が働くことを義務付けられるのではないだろうか、と考える。
こういった考え方をすれば、職業選択の第一条件は「好きなこと、得意なこと」だ。
上記の中で言えば「職種」だろう。
先進国だから職業は理想に近づくことができる
まだまだ経済的に未熟な国では、こういった考え方が理想論とみなされてしまうだろう。
働いて食っていく、なんて言葉を吐くより先に明日の食に困っている地域も多い。
こういう環境では、狩りでより多くの獲物を仕留めることができる人や、畑を耕したり、食物を栽培できたりする人がもっとも重宝される。そして、そこには本人の好き嫌いは関係ない(得手不得手は関係あるが)。
しかし、日本を含めた経済的に成熟した国では、衣食住、その他必要なものの殆どをお金で買うし、買える。
つまり、お金を稼げば食っていける(=働いて食う)。
ややこしくなっている根本は、食うという行為(もちろん食事メニューとは全然違う)は、好き嫌いや得手不得手がほとんど関係ない生命維持活動なのに、働くという行為には、好き嫌いや得手不得手が色濃く影響し、これらをイコールで結んでしまっているところだろう。
食っていく→個人の「生物的な」行為
働く→個人の行為+社会的な行為
つまり
食っていく≠働く
給料や待遇を気にするな、ということではない。それは極論に過ぎる。
しかし、大きく見ると職業選択の第一条件は「好きなこと、得意なこと」であってほしいし、あるべきだと思う。