www.jiji.com
1週間ほど前の記事。
非常に残念な記事だ。
教育に対する投資がもっとも回収能率が良いことは、世界中のデータで証明されており、それを受けて各国が教育への投資額を増やしている中で、日本はそれについていけていない。
しかしながら、教育は国家百年の計とも呼ばれるくらい、改革は難しく、回収できるまでの期間も長いので、短いスパンで回収できる方に予算を振ってしまうことも、現状では致し方ないのかもしれない。
教育には間違いなくお金がかかる。
そして、そのお金は今足りていない。
そういった現状でいまできることはもちろん、お金をかけずにできることから少しずつ始めることだ。
それにより、世の中のスピード感は増してきているし、今後も伸び続ける。
そんなスピード感ある世の中で、同時に語られるのは、将来役立つこととは?といったことだ。
しかし、この言葉には大きな疑問がある。
将来役立つことってどうやって判断するのか、だ。
革新的な発明は、革新的なだけあって、それ以前にはなかったものであることが多い。
コンピュータが当たり前になった時代だが、それが当たり前でなかった時代に、今で言うコンピュータを扱うのが好きだった人は、扱っている時間を無駄な時間と周りからみなされただろう。
本人も同じように思ったかもしれない。
「過去」にとっての「現在」は「将来」と同義であり、その過去からすると、コンピュータは役に立たないものだったのかもしれない。
まさか、いまコンピュータの勉強をしていて、将来役に立たないという人はいないだろう。
音楽を聞いて好きになった人も、その時点で音楽で生計を立てていくことなんてほとんど想像していない。
ゲームが好きでやり続けている人も、まさかそれで世界一になって名をあげることになるとは、誰も思わなかったに違いない。
要するに、将来役立つこと、なんて誰にもわからない。
堀江氏も言うとおり、いまから20年前にフェイスブックやLINEが流行ることを予想した人なんて殆どいないのだ。
将来がわからないならば、役立つことも分かるはずがない。
つまり、今教育現場で教えるべきことは、将来役立つことではなく、何かに没頭することのすばらしさだ。
同時に、その環境を整えてあげること。
これらは、お金がなくてもできることが多々ある。
最低限の教養は勿論必要だ。
しかし、それ以上の部分はひとそれぞれ違って良い。
それが多様性というものだ。
学校教育において、多様性を排除することが必然ならば、それこそ本当に学校のあり方を考え直す時代に差し掛かっているのかもしれない。