親の教育は、私が親という立場になって、本当に難しいと実感したことの一つです。
しかし、自由と責任はセットで、責任が、能力的にも社会的にもまだない子どもに対しては、大人と同じ自由を与えるわけにはいかないでしょう。
そこで親としてある程度のレールを引くわけです。
このレールを走るかどうかは様子を見て決めさせて良いと思いますが、このレールを走ることが正しいことだと信じ込ませ過ぎた例が冒頭の記事だと思います。
何も悪気があってやったことではない、というところが、こういったことをなくすことの難しさになっています。
つまり、自覚症状がない。
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物心ついたときから、ピアノを習っていました。
今の小学生はどうなのか知りませんが、少なくとも私の小学生時代、ピアノは女の子というイメージが強く、周りからよく冷やかされたものです。
私自身も、自分の意志で始めたわけではないので、嫌で仕方ありませんでした。
ある日、父親にピアノをやめたいと伝えると、現代ならばかなり問題視されるだろう勢いでボッコボコにされました。
普段から手が出る親でしたが、このときほど殴られたことは数回しかありません。
それから高校受験の為にピアノをやめるまでは、ほとんど恐怖心で続けました。
続けたくないのではなくて、やめられないのです。
受験が終わり、高校に入ってピアノを弾く義務がなくなった、、、と思ったら、なぜか自発的にピアノを弾くようになります。
結局ピアノを弾くのが嫌だった最も大きな理由は、周りから冷やかされていたからだったのでしょう。
高校あたりになると、男子でピアノを弾けることはカッコイイことに変わっていました。
同時期にギターに出会い、ピアノをやっていた音感や音楽的素養が役立って、ギターの上達も他より早かったと思います。
それから色んなことがあり、今私は音楽の世界にいます。
たとえそれが恐怖心という理由であっても、ピアノを続けたことが今の仕事をしていることに影響していることは間違いありません。
と言うより、ピアノを途中でやめていたら、他の仕事に就いていただろう、と強く思います。
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強要は良くない。それは教育でも躾でも程度にもよりますが、だめでしょう。
しかしながら一方、明らかに強要のレベルでピアノを習わせた親がいたから今の私がいる、とも言えます。
正直、私がやめたいと言い始めた時に、風潮としても経済的にも、やめさせた方が楽だったのだろうと思います。
それでも続けさせたのは、はっきりいって親のエゴですが、それによって今、充実した日々を過ごす自分がいることも否定できないのです。
もちろんこれは結果論であって、だからとにかく子どもは親の言うことに従っていればいいんだ、という気はさらさらありません。
ただ、親が子どもに夢を託すこと、自分ができなかったことを子どもに願うことそのもの自体は否定されるものではないと思います。
親という立場になった今は、私が引いたレールを、強要以外の方法でどうやって走らせるか、を色々と模索する毎日です。