祖母の三回忌でした。
私や私の両親、家族は、こういった類の儀式に対する思いが薄く、なんとなく形式上、という感じです。
ただ、今回がいつもと少し違ったのは、父方の親戚が集まったことです。
そんなの当たり前と思うかとしれませんが、うちの場合は少し違います。
親族内の確執はよく聞く話ですが、その一種です。
1人は連帯保証人関連、1人は障害者関連、そして1人は自ら命を断っています。
これらの問題が起こったのは全て私が小学生の頃に起こりました。
もちろん当時はそんなこと知らなかったし、知っていたとしても、とても理解できなかったでしょう。
そんな親戚が一同に会したのが今回の三回忌です。
なぜ三回忌のタイミングなのかは、単なる偶然です。
ただ一つ言えるのは、一同に会することができるようになった要因が時間だということです。
人の最も大切な能力は忘れることだ、と誰かが言っていましたが、そうは言ってもなかなか忘れられるものではありませんよね。
内容によっては死ぬまで忘れられないこともあります。
しかし、時が経つにつれて感情が薄れていくことは事実だと思います。
内容が「良くない何か」だったら、感情が薄れていくことに越したことはありません。
それを解決するためのベストな方法は、時間をかけることだと思います。
三回忌に親族が集まるという、どこにでもある風景を手に入れる為に長い時間がかかりましたが、それだけの時間をかけて手に入れたどこにでもある風景は、当事者の1人である父にとっては、なかなか見ることが出来なかった風景です。
だからなのか、今日の父はとても上機嫌に見えました。
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冒頭にも書きましたが、家族の関連の儀式などに関して思い入れが少ないうちの家族ですが、今日父親が上機嫌になれた要因にその儀式があったとしたならば(あったことは間違いないのですが)、そういった儀式の存在意義は小さくないと思います。
存在意義が薄れ、完全に形骸化してしまっているものも多くあり、そういうのをみるとやれやれと思ってしまいますが、そうでないものもあるのだな、と感じた一日でした。
というより、何かしらの儀式は、行う方の意識次第で意義深いものになったりカタチだけのものになったりするのだな、と思いました。
もちろん、後者を願っています。