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ルールは少し厳し目にするという手法もある、そういう記事を数日前に書きました。
学校のルール=規則も同じことがあてはま「っていた」のかもしれません。
校則は破るためにある、なんて良く言ったものです。
しかし、それによって苦しんでいる人がいるのだ、ということがわかる時代です。
そんな大雑把な考えで苦しむ人がいるのならば、避けなければいけません。
最近の若者は弱い。こういった意見をよく聞きます。
しかし、これには2つ反論したい。
まず本当に最近の若者が弱いのか。昔から弱い人はいたのに、見えなかった(見なかった)だけではないのか。そしてそれが許される風潮があったのではないか。
もう一つは、弱いことは悪くない、ということ。
まるで弱い人間が悪いかのように聞こえますが、ヒトは弱くても生きていく権利があり、それが弱肉強食である他の動物と最もちがう、ヒトらしいところです。
それを、弱いのがけしからん、的なことを言っても、何も解決しません。
くどくどと書いてきたこの文章、もちろん見据えているのは先日報道された、記事のタイトルにもある「茶髪問題」です。
この問題に対してですら、従うことによって育まれる精神がある、といった意見を言う人もいます。
もしかして、そういう人もいるのかもしれません。
しかし、不登校になる人もいるわけです。そうなると、その校則自体が合理的かどうかを改めて考えるのは、至って自然な考えです。
今までやってきたから、これからも、で時代がよくなるのならば、政治家もリーダーも必要ありません。
ことあるごとに振り返ってみて、本当にこのままで良いのか、ということを考える必要があり、それが難しいから先導する役割の人も必要となります。
校則がなかなか変わらないのは、学校という閉鎖的な組織だからでしょう。
いじめ、体罰、教師の労働時間など、会社ではすぐに問題視され改善策を要求されるものが、学校では問題視されないことはありませんが、対策は著しく遅い。
ネット時代になって、閉鎖的な学校が外から見えやすくなったから、問題が浮き彫りになります。
それは良いことだと強く感じます。