日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

学校〜閉鎖空間の終焉

headlines.yahoo.co.jp

 

ルールは少し厳し目にするという手法もある、そういう記事を数日前に書きました。

 

famo-seca.hatenablog.com

 

学校のルール=規則も同じことがあてはま「っていた」のかもしれません。

校則は破るためにある、なんて良く言ったものです。

 

しかし、それによって苦しんでいる人がいるのだ、ということがわかる時代です。

そんな大雑把な考えで苦しむ人がいるのならば、避けなければいけません。

 

最近の若者は弱い。こういった意見をよく聞きます。

しかし、これには2つ反論したい。

 

まず本当に最近の若者が弱いのか。昔から弱い人はいたのに、見えなかった(見なかった)だけではないのか。そしてそれが許される風潮があったのではないか。

 

もう一つは、弱いことは悪くない、ということ。

まるで弱い人間が悪いかのように聞こえますが、ヒトは弱くても生きていく権利があり、それが弱肉強食である他の動物と最もちがう、ヒトらしいところです。

それを、弱いのがけしからん、的なことを言っても、何も解決しません。

 

くどくどと書いてきたこの文章、もちろん見据えているのは先日報道された、記事のタイトルにもある「茶髪問題」です。

 

mainichi.jp

 

この問題に対してですら、従うことによって育まれる精神がある、といった意見を言う人もいます。

 

もしかして、そういう人もいるのかもしれません。

しかし、不登校になる人もいるわけです。そうなると、その校則自体が合理的かどうかを改めて考えるのは、至って自然な考えです。

 

今までやってきたから、これからも、で時代がよくなるのならば、政治家もリーダーも必要ありません。

ことあるごとに振り返ってみて、本当にこのままで良いのか、ということを考える必要があり、それが難しいから先導する役割の人も必要となります。

 

校則がなかなか変わらないのは、学校という閉鎖的な組織だからでしょう。

いじめ、体罰、教師の労働時間など、会社ではすぐに問題視され改善策を要求されるものが、学校では問題視されないことはありませんが、対策は著しく遅い。

 

ネット時代になって、閉鎖的な学校が外から見えやすくなったから、問題が浮き彫りになります。

 

それは良いことだと強く感じます。