「普通」という概念って、大切ですね。
誰かとコミュニケーションをとっているとき、普通という感覚がなかったら、コミュニケーションが成り立たなかいばかりか、人を傷つけることすらあります。
一方、「普通」の感覚って誰が決めるんでしょうか。
あの人は普通だね、という人は周りにいますか?少なくとも私の周りにはいません。もしいたとしたら、それはあまりその人のことをよく知らないだけで、表面的なところしか見えていない、ということが多い。
普通というのは、統計的多数のはずなのに、ふと周りを見回すと該当する人がいない。不思議ですね。
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個性・多様性という言葉が乱用される(私も使っています)現代においては、「普通の人」というのは少しばかりネガティブなイメージを持たれます。
ありふれている、どこにでもいる、という言葉と結び付けて考えられるわけです。
その逆を言うと、普通じゃないのが良いということになります。
それを表しているのが、著名なミュージシャンです。
その辺を歩いている人に聞いても、誰でも知っているクラスのミュージシャンっていますよね。私の好きなサザンやミスチル、EXILEやAKBグループなどもそうです。
そういった著名人に「普通」を求める人はいません。普通じゃない、ということがとても重要で、だからこそ一般の人にはなかなかたどり着けないステージの上にいるわけです。普通じゃないからこそカッコイイ。
しかし、少なくないミュージシャンは、実は普通に憧れていたりします。
自分の「素の状態」が、大衆にとっての「普通じゃなさ」となり、さらにそれが「魅力的」になるというのは本当に稀で、そうでない場合はやはり魅力的になるようコントロールする必要があります。
そんなことを年中やっていると、当然メンタルが疲弊します。本当の自分と、周りに見せている自分が乖離している状態なので、かなりやられます。
そんなとき、素の自分(=普通の自分)でずっといられたらな、と憧れるわけです。
もちろん、それは自分の選んだ道なので誰のせいにするわけでもありません。
かといって、有名税という名の精神的疲労を「仕方ないや」と簡単に片付けられるほど
図太い人ばかりではありません。
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私は今、「普通」に結構憧れています。私が普通でないばっかりに、誰かに迷惑がかかると心が締め付けられる思いがします。
しかし、普通ってどこを探しても見つかりません。メディア?ネット?統計?
メディアやネットが偏っているのは言うまでもありません。
統計は、最初に書いたように普通に繋がってそうで繋がっていません。
私にとっては、「普通」というのがとても遠い概念に思えてなりません。
そして、そんなことを思う自分も、それをこうやってブログに書くことも恐らく普通ではないのでしょうね。