私は、「昔からあるだけで実際には意味がない」、もしくは「意味がなくなった」マナーというのが嫌いです。 しかし一方で、そういうマナーも残るだろうし、さほどの労力を費やす必要がないのならば、従ったほうが良い、とも思います。
現代にあるマナーって、本来の意味まで言える人ってどのくらいいるのでしょうか。 私はマナーというワードに敏感に反応するので、当ブログでは何度もマナーについて書いてきました。
マナーは、周りにいる人に不快感を与えないため、というのが第一義だと思っています。 しかし、不快感の原因が、そのマナーの知識だった場合、そのマナーは本末転倒だと思います。
極端な例ですが、印鑑を若干左に傾けて押すのは、お辞儀をしている様子を表しているらしいのですが、そのことを知らずに、印鑑がまっすぐ押されているのを見て「お辞儀されていない、ショックだぁ」と不快感を覚える人はまずいないでしょうね。
こういう、ほとんど意味のないマナーはいかがなものか、と思いますが、印鑑を左に傾けて押すのには特に労力を使いません。 だから、「左に傾けるとお辞儀してるみたいで良いでしょ?」と言ってもらえれば、「へー、面白い」で終わるわけです。
しかし、これが組織のマナー、ルール化していくから面倒です。 根拠のない憶測ですが、印鑑を傾けるマナーだって、最初はシャレでやって面白がったんじゃないですかね。
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銭湯には、実際に意味のあるマナーがあります。 タオルを湯船につけない、騒がない、かけ湯をするなどは、理にかなったマナーです。
しかし、これらのような理にかなったマナーですら、言い方一つで聞き入れてもらえなくなります。 たとえ正しいことであっても、言い方には気をつけないと、それこそ意味がありません。
マナーって法律ではありません。 守ったほうがよいものです。 だからこそ、言い方には気をつけないと、反発心を生むだけに終わります。 反発心をもった人の中には、もう銭湯にいかない、という行動に出る人もいるわけです。 法律じゃないから、そういう行動もアリです。
結局銭湯のお客さんが減ることになります。
マナーを守ってみんなにとっての心地よい空間にしたいのに、それでお客さんが減って、一体誰が得するのでしょうか。
そう考えたら、数あるマナーの中で最も大切なマナーは、ものの言い方、伝え方のマナーなのかもしれません。