新聞は、嘘を書いてはいけない。
取材不足で結果的に嘘になってしまうものもあるが、それですら批判の対象になるのが新聞。
影響力が(以前よりは弱くなったとは言え)強いので、それだけの「正しさ」を求められるのは、新聞の宿命だ。
なのに、嘘とわかっていて書いた記事がこれだ。
ありもしない事実を捏造したということらしい。
責任は重いし、その責任の「ほとんど」はこの記事を書いた本人にある。
しかし、それを踏まえて上でなぜ捏造記事を書くに至ったのかを考えてしまう。
会社に責任はないのか
先日の電通社員自殺事件は、本人が自殺という選択をした事に対し、労災がおりた、つまり会社の責任を認めた形だ。
重ねて書くが、今回の捏造事件の責任は、この記事を書いた本人にあることは間違いないが、果たして新聞社側の責任は全くないのだろうか。
酷く一般論的になってしまうが、最近の新聞を始めとしたマスメディアは、最も重要な「事実を報道する」ということよりも、「購読者に読んでもらえること」の方に力を入れている気がしなくもない。
それらが一致する記事もあるが、一致しないニュースもある。
地味でわかりにくくても、記事にする必要があるニュースは山ほどある。
しかし、社内が、とにかく購読者に読まれる記事を書くことが最も重要
、という空気に染まっていたらどうだろう。
そんな中で、事実を曲げてでも面白おかしい記事を書いたほうが良い、という者が出てきてしまうのは、想像できなくもない。
直接関係がないことニュースから学ぶこと
こういった事件では、記事を書いた者を徹底的にたたき、悪者にしてしまって事件が終息に向かうということでは、何も解決しない。
なぜそれが起こったのかを考えることが必要だ。
もちろん、社内の空気がどうであれ、大人になれば本人の心の弱さが言い訳になるとは思わない。
しかし、俯瞰すれば、そういった結末から学ぶことはあまりにも少ないし、あまりにも自分に関係がなさすぎる。
自分は中日新聞読者ではないし、この記事にでてくる内容とも全く関係がないからだ。
しかし、自分のいる環境、周りにいる人に今回の事件をあてはめて考えると、それはいつでも起こり得ることかもしれない、と思えば、こういったニュースを知る意義が出てくる。
生き方は変わる
ありふれた予想かも知れないが、今後数十年で働き方は大きく変わるだろう。
それに伴って、企業のあり方、組織のあり方、はては人と人の個人的な付き合い方も変わっていく。
しかし、それが「どのように」変わっていくかわからない以上、いまのところは自分の心を信じるしかないのかもしれない。
「これは何かおかしくないか?」
そもそも論でそう思えることが、この過渡期を生き抜いていく手段としては最適だと思う。