日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

当事者不在の批判は、飽きた

 

 

上記リンクは、すべてここ最近の記事だ。

どの記事にも感じるのが、当事者不在の批判のように聞こえる、ということだ。

 

順番に見てみる。

 

子宮頸がんワクチンの副作用 

 

子宮頸がんワクチン副作用の問題は、それが本当かどうかを市民が判断する空気を作るのに、マスコミの影響が絶大だということをあらわしている。

 

当事者不在という側面から切り取ってみる。

たしかにメディアの論調がネガティブな方向へ変わったきっかけになった記事は、恐らく嘘ではないものの、その記事を読んで批判の空気を醸成した人たちは、副作用によって苦しんだ本人ではない、ということだ。

 

マイノリティーを無視してよいとは言えないが、そのマイノリティーを一般化するには、それなりの(この場合だと医学的)根拠が必須だろうが、そういうことよりも前に、副作用が出ているという空気ばかりが支配を始めてしまった例だろう。

 

原爆ドームのイルミネーション

 

原爆ドームのイルミネーションに関して疑問を呈した2つ目の記事は、記事タイトルに「被爆者ら疑問視」という言葉が使ってあるにもかかわらず、記事中には被爆者の具体的な声は出てこない。

 

報道側(この記事に関していえば朝日新聞)が、被爆者目線で記事を書きたいのならば、その読者の殆どが被爆者ではないということは自明なので、被爆者目線であることの説得力を増すための努力が当然必要だろう(仮名でも良いので、本当の声を掲載するなど)。

 

それが書いていないことには、恣意的ものを感じてしまう。

 

キューバの服喪

 

最後の、キューバ服喪「よい日を」NGは最もわかりやすい。

なぜなら、カストロは既に亡くなっている。

カストロのことを思って、や、カストロならこうする、といった言葉は、全て当事者不在の想像でしかない。

 

想像することは何も悪いことはない。

しかし一方、想像は限りなく個人的なもので、人への強要は不可能だ。

「良い日を」という言葉を避けるという空気が作られることは全く健全ではなく、各々が思う行動をとればよいだけだ。

 

 

政治の世界でも、日常生活でも、批判という立ち位置が何かを良くすると思われている風潮があるが、佐々木俊尚氏が言うように、批判は立ち位置でしかなく、そこに哲学はない。

 

哲学のない主張、批判は、目的のない喧嘩と同じで、生産的なものはないに等しい。

もうそろそろ、当事者不在の批判を、記事やニュースのインパクトを高めるためのツールに使うのはやめてほしい。

 

上述したように、生産的でもないし、且つ飽きた。

 

 

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