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1週間ほど前の記事だ。
自分にとっては呆れてモノが言えない、というレベル。
一周して戻ってきた批判
20歳を超えても、女性に対して「女の子」という呼称はおかしい、という意見をきいたことがある。
これは、同じことを男性にあてはめたとしたら(つまり20歳を超えた男性に対して「男の子」という呼称を使うこと)、正直かなりの違和感を感じるのに、女性だけはそう違和感を感じないという風潮に疑問を持った人が主張したことだ。
今回の批判は、一周回って戻ってきたとも言える。
25歳になった女性に、女の子ではない、というとセクハラにあたるというのだ。
そもそも論で考える。
25歳は女の「子」ではない。
女の「子」でない人に向かって、女の子でないと言って批判を浴びるなんて、めちゃくちゃだ。
英語では、I love you baby というセンテンスがある。
このbabyはほとんどの場合、恋人である女性を指すが、元々はもちろん赤ん坊という意味だ。
今回のCMに批判をした人にとっては、こういう英語はどういう扱いになるのだろうか。
これもマイノリティー憑依か
このCMを作った資生堂は、意図していたメッセージが伝わらなかった、としている。
しかし、このCMで意図したことが、25歳を超えた女性は、チヤホヤされないこと、カワイイと言われない、ということでないことくらい、通常の読解力があればわかるだろうし、実は今回これに批判を寄せた人も分かっているのではないだろうか。
しかし、その意図が曲解される可能性もある、ということを懸念しての批判だったのではないだろうか。
自分はそう受け取っていないにも関わらず、だ。
これがいわゆるマイノリティー憑依だ。
言葉狩りは文化にとってマイナス
言葉は大切だ。
言い方一つで相手への印象が大きく変わるし、文化そのものの雰囲気を表しているという側面もある。
しかし、大切にするということと、こういった揚げ足取りをするのは別どころか、むしろ逆効果だ。
例えば奥ゆかしい表現や言葉というのは、その言葉だけを切り取れば抽象的な表現、言葉であって、それをいかようにでも受け取れる、ということも言える。
いかようにでも受け取れる、ということはつまり、誰かが傷つくような受け取り方も出来てしまうのだ。
誰か一人でも傷つく人がいる可能性がある場合は不適切、と言い始めたら、そういった表現や言葉は一切使えなくなる。
つまり、奥ゆかしい表現も使えなくなり、言葉によって支えられた文化の部分が壊れていく可能性があるのだ。
柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺
この句に対して、柿だけをえこひいきしている句で、他の果物を栽培している農家がかわいそうだ、けしからん、なんてことを言い始めたらキリがない、というのが極端ではあるものの、一例だ。
言葉は、それを誰がどういった状況で発したのかまで含めて受け取らないと、単なる字面でしかない。
しっかり捉えることを、もうそろそろ見直してもよい時期ではないだろうか。