日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

主観0で美しさ、華麗さを採点するAI採点支援システム

冗談から始まった挑戦:体操競技で正式導入された「AI採点支援システム」が切り開く未来とは | nippon.com

 

以前も書きましたが、数あるオリンピック種目の中で、もやっとするのが体操やフィギュアといった、美しさ、華麗さを競うもの。

 

例えば短距離走は、0.01秒を競います。

肉眼でわからないような着順であっても、カメラ判定により、誰の目にも明らかな勝敗が決まります。

たった0.01秒でも、その勝敗は明らかで、そこに人間の主観はありません。

私が思うスポーツの最も素晴らしいところはここだと思っているんです。

たとえどれだけ僅かな差であっても、誰の目にも明らかな勝敗が決まる。

 

一方美しさや華麗さって、誰の目にも明らかとは言えるでしょうか。

技術点には厳密な計算方法がある、と反論する人もいますが、だったらなぜあんなにたくさんの採点者を用意しているのでしょうか?

それは、美しさや華麗さの主観要素を完全に排除できないことありきで、採点者を増やすことによって客観性をもたせよう、ということじゃないですか?

 

美しさや華麗さに客観的な順位はつけられない、というのが私の意見です。

音楽も同じで、世界で一番「売れている」アーティストは、事実として認知されますが、世界で一番「すごい」アーティストを客観的に決めることはできない。

(マイケル・ジャクソンとビートルズ、どっちが上?)

 

だから、体操やフィギュアの順位付けにはスポーツの最も大切な部分が抜けている、と感じるのです。

ミュージシャンが世界的に有名なフェスに出ることで大きなステータスを獲得するように(でも順位は無い)、フィギュアや体操にもそういったイベントを用意し、そのイベント出演が大きなキャリアになるようなブランディングをする、というほうが、体操やフィギュアという競技の特性に馴染むと思うんです。

 

でも実際、体操やフィギュアはオリンピックの人気種目であることは間違いなく、こんなこと言ったってオリンピック種目から消えることはありえないでしょう。

 

冒頭のAI採点支援システムは、私が思う懸念点を全部ではないにしても、大きくカバーできるものだと思います。

 

美しさや華麗さは短距離走の順位のように単純に決められないから、AI採点は相当に難しい仕組みになっているでしょう。

だから、AI対策を講じることで高得点を狙う、なんて多分人間には無理です。

同時に、採点側の主観要素は完全に排除できます。

つまり点数が客観的になるのです(または近づく)。

 

もちろん、多くの人がAさんが良かったと言っても、AI判定ではBが勝ちとなって、おかしいぞー、みたいな問題は確実に出てくるでしょう。

 

でも、それって人間が採点している今だって同じでしょう?

これまでフィギュアや体操で、採点で一度も揉めなかった大会なんてあります?

 

美しさや華麗さを競うという特質上、どのみち採点で揉めるのならば、主観要素を排除できない人間よりも、主観0のAIによる採点のほうがまだ納得いきます。