訳あって、今日は学生時代に住んでいたところの近くに行くことになった。
用事は比較的早く済んだので、昔の家の周りをゆっくりと時間をかけて周った。
意外に覚えているものと、意外に忘れているもの。
意外に変わらなくあるものと、昔どうだったかを思い出せないくらい変わっていたもの。
本当に様々だ。
しかし、一番感慨深かったのは、やはり自分が住んでいたマンションだ。
1DKのシンプルなマンション。
特に大幅な改装は行われていないらしく、その姿は懐かしさを感じるには充分すぎるくらいだ。
単純に不思議に思うのは、そこに懐かしさを感じなかったら、何一つ特徴の無い風景でしかないものなのに、そこにある種の感情を抱く、ということ。
1階の部屋だったので、カーテンさえ開いていれば中まで見られたが、生憎カーテンは閉ざされたままだ。
実際自分が学生の頃すんでいた時も、カーテンを開けることはほとんどなかった、と思い出した。
今その部屋には、なぜかベランダに干してある衣服から容易に想像できてしまったのだが、学生が住んでいるようだ。
引っ越しは何度か経験しているのが、今住んでいる所と結構離れているということに加え、そこに住んでいた時のいろんな意味での(本当に、いろんな意味で、だ)濃い生活が、なぜか部屋の中をもう一度見たい、という気にさせた。
しかし、そこには自分ではない人と、自分ではない生活がある。
姿カタチは変わっていないが、姿カタチ以外は何もかもが変わっているのだろう。
もちろん中は見ず、思い出に浸って帰路につく。
自分が学生の頃に住んでいた時でさえ、新築ではなかったので、自分の前にも別の住人がいたのだろう。
そして、自分が気づかない間に、今日の自分のようにそこを訪れ、その姿カタチを眺めて思いを馳せただけで立ち去った人がいるのかもしれない。
学校からの距離、間取り、家賃を考えると明らかに学生向けなので、おそらくはその人も学生だった時の思い出に浸ったのだろう。
当時は、昨日と同じ今日は明日も来る、と思って毎日を生活していた。
いや、そんなことすら考えていなかったのかもしれない。
しかし、そこにある空間には、自分より前には、別の空気が漂っていたはずだ
そして、自分より後にも別の空気が漂っている。確実に。
そのことを、そこに今住んでいる人が意識することは、まあ、ないだろう。
空気とはそういうものだ、
空気の変化はあまりにも突然に、自然に、当然のように。
でも、その空間は実は何も変わっていない。
平均寿命からすると、人生の折り返し地点辺りにいる自分。
自分が周りの空気を変えていくこともある。
ところで、空間は何も変わらない。
そこに人生の意義を見つけられるかどうか。