このブログでは再三にわたって記事に書いてきたが、改めて。
縦社会構造の理不尽について
年上を偉いという理由
まず根本的なところだが、年上は年下より基本的に偉いのだろうか。
これを考える為には、「偉い」という言葉の意味も考えなくてはいけない。
人物や行動などが普通の人よりはるかにすぐれているさま
国語辞典では、こういうことらしい。
ここには、年齢のことなんて何も書いていない。
では、なぜ年上は偉い、という風潮があるのか。
それは、年を重ねている分だけ経験も多く、社会に貢献した蓄積量も多い、ということからではないだろうか。
確かに、高校生と社会人を比べると、経験や社会貢献の量(それはつまり税金をはらったりした量)は歴然だろう。
しかし、高校生同士、社会人同士ではどうだろうか?
高校2年生は高校3年生に比べて、必ず1年分あらゆる経験が少ないのだろうか。
社会貢献の量は、高校生では正直ほとんどかわらないと思うので、経験量だけで計ることになるが、そこに本当に差があるとは思えない。
さらに社会人。
社会人となると、まずやっていることが各々でかなり違う。
銀行員とミュージシャンでは、やっていることに共通点を見出す事のほうが難しいだろう。
だとすれば、ミュージシャン10年の35歳と銀行員20年の45歳は45歳の方が経験が上、とは全く言えない。
社会に生きている、という意味での経験ならば、だらだらした社会人を何年も過ごしている人もたくさんいるし、社会人になったばかりだが、生産的な業務を日々こなしている人もいる。
つまりは、年上だろうが年下だろうが、素晴らしい人は素晴らしいし、ダメな人はダメなのだ。そして、関係ない人は関係ない。
年齢なんかで敬うかどうかなんて決められるはずないのだ。
尊敬されたい人がとるべき行動
老害ということばはあまり好きではないが、そう思ってしまうこともたくさんある。
一番おもうのは、昔はよかった的な説教。
そういった説教をするひとは、その説教に素直にうなずかなかったら、えらく憤慨したりする。
しかし、尊敬されるべき人間は、素直にうなずかれないような説教なんかしない。
本当に尊敬されているひとならば、強要する前に挨拶だってしてもらえるだろうし、お酌もしてもらえるかもしれない(もっとも、お酌は尊敬している人に対してですら、自分はしないが)。
年を重ねて、年下の人間が自分をどうみるかなんて、年上の人間が考えることではないし、強要することでもないのだ。
もし、自分のようになってほしいという欲求があるとしたら、強要なんかせずに、憧れられるような自分になれるよう自分磨きをするのが唯一の方法だろう。