強要すること自体があまり好きではないが、その中で「伝統」を武器に強要する人は本当に面倒だ。
日本の誇りある伝統だから継承していく重要性が高い。
これと、新しいものを取り入れて激動のこの時代を乗り切るベターな選択をできるようこころがける、ということは、しばしばバッティングすることになる。
まず根拠が必要かどうか、というところから食い違いが生じる。
冒頭の記事を例にとってみよう。
伝統継承の理由はない?
正座はマナーの一つ。
昔からの伝統なので、守っていこう。
しかし、なぜ昔からの伝統は守らなければいけないのか、となると、それは「伝統とはそういうものだ」という、理由としては崩壊しているとしか思えない答えになる。
批判を怖れずに、より突っ込んで言えば、「伝統だから」という理由以外に、それを継承する理由を思いつかないから、伝統継承という文化を利用しているのではないだろうか。
つまり、伝統だからという理由以外に正座をする根拠なんてない。
これに対して、なぜ正座をしたくないのか、という根拠は明快だ。
痛いから。
要するに、痛さを我慢してまでも守らなくてはいけない「正座」という行為は、それだけの意義があるのか、ということになる。
そこで出てくるのが、伝統の長さ。
昔からの伝統という言葉を乱用されることも多いが、それはおおよそどのくらいの長さ継承されたら伝統と呼ぶにふさわしいものになるのだろうか。
冒頭にあるように、正座の歴史は意外に短く、たった100年程度だ。
想像もつかない位昔からの伝統となれば、その長さの分伝統の重みもあるのかもしれないが、たかだか100年程度でできた正座がマナーという文化は、痛さを我慢して継承するほどのものなのか甚だ疑問だ。
盆踊りを江戸時代と同じようにすると
伝統文化の悪用は他にもある。
夏祭りで盆踊りに参加する人も多いと思うが、起源はさておき、江戸時代あたりの盆踊りは男女の出会いの場という色彩が強く、性的に乱れることも多かったそうで、警察沙汰になることもあったらしい。
伝統が大切ならば、こういった文化も引き継がねばなるまい。
もし、これが現代に照らし合わせて馴染まない、という理由で却下されるのならば、痛さを伴う正座だって却下されなければならない。
正座をする理由は他にもあるのなら教えてほしいところだが、それは上に述べたとおりだ。
伝統は、強要ではなく態度をもって継承されるべき
伝統をただ叫ぶのは、思考停止を招く。
モノでもマナーでも、本当にそれを継承したいと強く願うのならば、それがいかに素晴らしいもの(行為)であるか、ということの一緒に継承するべきだ。
根拠はないものの、どうしても正座の文化を残したい、というのならば、強要するのではなく、自分自身をどこまでも磨き、皆に尊敬され、その人が正座をしているから自分もぜひ真似たい、と言わせる位の気概はほしい。
上から目線、からの強要ほどアタマを使わない命令はない。