私が通った小学校には、少人数学級と呼ばれるクラスがありました。 それは障害者のクラスです。
教育の一環なのでしょうか、年に一度くらいその子達と交流をするイベントがあります。 しかしそれ以外は別で、教室も離れていたし、交流することはありませんでした。
年に一度の交流はいろんなタイプがあるのですが、そのうちの一度、今でもはっきりと記憶している交流があります。
その時の交流の仕方は至ってシンプルで、健常者から選ばれた数人が一人ずつ、障害者から選ばれた人に質問をして答えてもらう、というものです。1対1を数組行うわけですね。
序盤は予想通り(?)、好きな食べ物はなんですか、学校は楽しいですか、といった無難な質問です。 あまりに無難すぎて正直覚えていません。
覚えているのは健常者のこの質問です。
「今度の連休は何をしますか?」
この質問を言い終わると同時に、私達のクラスの担任と障害者のクラスの担任が駆け寄ってきて、その場を終わらせました。 その場を終わらせながら担任は質問した健常者に「そんな難しい単語はわからないから」とすこし怒り気味に伝えていました。 そのときに感じた違和感は少しでしたが、日が経つにつれ、そして私が大人になってからより濁った印象へを変わっていきました。
なぜあの質問をした生徒は怒られなければいけなかったのか。 連休という言葉は確かに難しいが、質問することすらNGなのか。
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今後いくら医療が発達しても、身体や心に障害を持って生まれてくる人、生まれたあとに障害を背負う人がゼロになるとは思えません。そんなことは素人の私でもわかります。 医療関係の方々は障害を持つ人をゼロに近づける努力が必要でしょうが、そうでない庶民にとっては当分のあいだ、障害を持った人が一定数いるのが社会だ、という認識をもっておかなければなりません。
私の通った小学校の障害児クラスの名前が「少人数学級」ということが示すとおり、障害を持った方は数としては少数です。 世の中の環境や制度は多数向けに作られるものがほとんどですし、昨日も書いた「普通」という概念の基本ベースは多数であることを考えると、障害者は「普通でない」という枠になり、あまりよい印象を与えません。
私達はだからこそ、意志を持って健常者と同様に接する努力をするべきだと思います。 自然にではありません。意志を持って、です。
私の小学校で起こった事件。 あのとき「連休」という言葉を使ったことでその場が終わりましたが、例えば相手が健常者で「連休」という言葉を知らない人であっても同じ対応でしょうか。 交流の目的は、健常者の質問に障害者が答えることではなく、交流そのものにあるのではないのでしょうか。 だとすれば、「連休ってなんだろう・・・」という戸惑ったリアクションだったとしても、交流の一つと言えるのではないでしょうか。
繰り返しますが、障害者とも健常者と同じように接することが自然にできる、というのはいささか理想論だと思います。 少数だから、その機会が少ないためです。
だから私達は、障害者とも健常者と同じように接しよう、と強く意識する必要があると考えますがいかがでしょうか。