音楽は自由だ、、、と言いたいところですが、実際のところ、楽曲というのはあらゆる法則に縛られています。 ドレミファソラシドと、そのシャープやフラットの音を使ってメロディーやコードを構成している時点で、そのスケールやコードに縛られているということになります。 こういう法則を完全無視して曲を作ったら、それは音楽ではなく「雑音」になっちゃいます。 雑音か音楽かの差はつまるところ、最低限の法則の上で奏でられているかどうか、ということになります。 だから雑音は自由でも音楽は自由ではないのです。
ということで、音楽をやる上で、特に作曲をする上で音楽の法則を学ぶ、つまり音楽理論を学ぶことは必須になります。 しかし、巷にあふれている音楽理論書はとにかく厚い。あんなもの見たら誰だってうんざりします。 これは「音楽」じゃなくて「音学」だ、なんて言いたくなる気持ちもわかります。
安心してください、あの理論書のうち、実際にしっかりと把握する箇所はほんのわずかです。 理論書によって違うと思いますが、一般的な理論書ならばセカンダリー・ドミナント、モーダルインターチェンジくらいまでです。 今手元に理論書がありますが、この本には全部で6章あります。そのうち上記範囲は2章の途中までです。つまり全体の1/3くらいまででOKということです。
じゃあなんでこんなに厚い本を書くのか。それは、そんなに薄い本だと本として成立しにくいからだと私は推測しています。 つまり、出版側の都合ですね。
では、理論書の1/3を読んでアタマに叩き込めば音楽理論は万事OKということかというと、そうではありません。どういうことでしょうか。
それは、理論書を学ぶときに決定的に欠落しているものがある、ということを忘れているから起こります。 言うまでもなく「音」です。
例えばセカンダリードミナントを理論書で学び、その理屈も理解できたとします。 コード進行表をみれば、どこにセカンダリードミナントコードが使われているかも分析できるようになったとします。 しかし、これではあんまり意味がありません。なぜならまだ音で確認していないからです。
音楽は言うまでもなく音で構成されています。 セカンダリードミナントの理屈は座学かもしれませんが、音楽的な理解は音でするしかありません。 簡単に言えば、初めて聞く楽曲が流れているときに、セカンダリードミナントコードが使用されている部分ですぐにそれがセカンダリードミナントコードが使われている、と気づくことができるか、ということです。
これは絶対音感が云々ということとは全く違います。 何の音がなっているか、どんなコードがなっているか、ではなく、セカンダリードミナントコードがなるときは、こういう「感じ」になる、という認識の仕方です。 これは他の音楽理論もすべて同様で、ダイアトニックコード、モーダルインターチェンジ、マイナースケール3種など、それを机上で学ぶだけでは理解の半分も達せられていません。
音楽理論を学ぶときは、その理論を使った音的なテクニックを音で、そして楽曲の中で確認することが必須です。