この国のかたち、という非常に魅力的なタイトルで、実際同タイトルの本も所有しているが、それともまたすこし違い、楽しんで観ることが出来た。
その中で、「無思想の思想」というキーワードが出てくる。
日本人の宗教観
考えてみれば、日本人の宗教観は、言葉は悪いが、結構「テキトー」だ。
年末だけ切り取ってみても、クリスマス(キリスト教)を祝い、除夜の鐘をならし(仏教)、三社参りに行く(神教)。
全てを行う人も結構いて、しかもその人達の殆どには、宗教的な考えを持っての行動という意識はないのではないだろうか。
ある特定の宗教に入っている人にとっては、よくわからない行動原理だろうし、思想がないと言われれば、確かにそうなのかもしれない。
しかし、それが悪いこととは少しも思わない。
違うことを楽しむ
神様、それに類するものの存在は基本的に全く信じていないが、そういったものを信じている人は、要するにその考え方や生き方の軸を、そういったものに見出しているのだろう。
ところが、人はみな違う。
親子や兄妹で血がつながり、ほぼ同じ環境に育っても、なかなかに違う。
だとすれば、ある考え方や生き方が万人に適用されるという事自体が幻想だ。
その幻想を無理やり追求しておこった戦争が歴史上にやまほどあるのは、厳然たる事実だ。
そこで、無思想の登場だ(と思う)。
「無」という漢字からは決して良い印象は受けないが、つまり様々な考えをまず受け入れる、という哲学だ。
キリスト教のことや仏教、神教のこともよくわからないから受け入れない、ではなく、とりあえず足を突っ込んでみよう、という考えが、年末の行動に反映されているのだろう。
人はみな違う。
違うが、共存していかなくてはならない。
だとすれば、思想という形のないものに、絶対的な正しさなんて求めても、悲劇しか生まれない。
違わないようにするのではなく、違いがあっても良い、と思えば、いろんなことに対する考え方が楽になる。
そのことを無思想の思想と呼ぶのならば、非常に魅力的な思想だ。
砕いて言えば「テキトー思想」なのかもしれない。
島国に住んでいる日本人。
そのうえ鎖国までしていた日本。
そんな日本人にとっては、海外から入ってくるヒト、モノは間違いなく好奇心の対象になっただろう。
現代では、そこに情報が加わった。
日本人は情報に飢えているのかもしれない。
しかし、その情報を得て、テキトーに触れてみるということができるこの時代は、良い時代だと思う。